なぜ努力するか?

投稿日:2015年1月15日 更新日:

人間が努力する意味について京セラの稲盛さんは、
植物なら太陽に向かって大地の栄養と太陽の光を浴び枝を延ばすのと同じだといわれる。

ことさら人間は一生懸命とか、努力とか言うが、
生きてるという行動はまず肉体を維持するために食べ物を探す、
傷つかないように衣服を着て、安心して眠る住居を持つ。

現代はこのように肉体維持のみでなく、
自分の存在感を感じる充実や、自分の価値観を実現する欲求へと進化してる。

そのために、惜しみない努力をするのは言うまでもない。
これは利己的な自分の独りよがりな欲求だ。

実は現代を生きる私たちは、人間としての利己的な欲求を充足するだけでなく、
社会の役に立つ、1.能力 2.深くて広い人間性を獲得することが必要充分条件だ。
この二つを磨くのが「本物の人間」になるのだといわれるのは芳村思風さんだ。

「本物の人間」になるには二つのことを学ばねばならない。
1.人間の本質・実態に触れなければならない。
そこで人間の本当の恐ろしさ、醜さ、怖さ、素晴らしさに触れ生きる力を養う。
2.社会の本質の本当に恐ろしさ、醜さ、怖さ、素晴らしさに触れて
そこで社会を生きる力を養わなければならない。

人間と社会の実態を知り乗り越えていく強さを身につけ、
本当の実力を磨く努力がいると断言される。

若き道元もまた、24歳ごろ「人間には生まれながら悟っているのになぜ努力がいる」
という大疑問を持った。
「正法眼蔵」に、「この法は人々の分上にゆたかにそなわれりといえども、
いまだ修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし」

意味=人間には仏性が備わっていても磨かないと得られないという。(努力の意味だ)

それは現実の中にあり、生死の世界から逃げてはないと言う意味である。

「正法眼蔵」に「生死はすなわち涅槃なりと覚了すべし。
いまだ生死のほかに涅槃を談ずることなし」(弁道話)
意味=生死を離れて悟りの境地はないと強調する。

道元は「修証一等」であるというのである。
修行してることが悟ってることで悟っても修行することだというのだ。
本当に「今、ここ、自己」は修行であり同時に悟りである。

努力する事に大疑問を持った道元は「努力する意味」を体得し、
その後も禅の伝道者として努力し続けたのである。

皆さんの志と努力の意味は如何されていますか?

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