先日、正岡明さんからおじいさんの話を聞いた。
明さんはおじいさんとは面識はないが、明治の文豪「正岡子規」である。
愛媛県松山市は石材を始めるきっかけになった親友がいる。
松山市内には「正岡子規」の句碑があちこちに建っていて、「子規堂」や、
子規の幼いころからの親友秋山真之(日本海軍中将)、
兄の秋山好古(陸軍大将)の銅像がある生家が今も保存され市民の誇りとなっている。
子規の東大の予備校時代の親友は夏目漱石で、道後温泉近くの下宿に転がり込んで、
俳句の会を模様したりして、漱石にも俳句や短歌に影響を与えた。
明さんから生い立ちを聞いて、なるほどと思ったのは、
明治元年の一年前に生まれ明治五年に父をなくし家督を相続したのである。
松山藩士、正岡常尚と八重の長男であって、母方は儒学者大原観山であり、
幼いころから漢書を学んでいたのである。
子規という名前も結核をわずらい、ホトトギスのくちばしが赤いことから、
鳴いて血を吐くと俳句を読んでいる自分を重ね漢字でホトトギスを子規と書くところから俳号にした。
病と闘いながら詠んだ句に、
「生きて帰れ露の命と言いながら」
「いかばわれ筆の花散るところまで」
「臥しながら雨戸開けさせ朝日照る上野の森の晴れをよろこぶ」
「神の我に歌をよめとぞのたまいし病に死なじ歌に死ぬとも」
この俳句や短歌から彼のすさまじいまでの命を生き抜く姿を感じる。
病の自分を客観的につづった「病症六尺」の中に、有名な彼の死生観がある。
「余は今まで禅宗のいわゆる悟りということを誤解していた。
悟りということはいかなる場合にも平気で死ぬることかと思っていたのは間違いで、
悟りということはいかなる場合にも平気で生きていることであった。」
葉隠れでは武士道とは死ぬことと見つけたりというが、
子規は見事に逆転させ、何があっても生きることというのである。
仕事や人生に都合のいいことばかり起こらない、悪いことも起こる。
その時現実から目を背けるのでなく、
事実を受け入れ、生き抜くことであると励ましてくれているように思える。
最後に、明治35年9月19日に死ぬ12時間前に詠んだ句を紹介する。
「糸瓜(へちま)咲いて痰のつまりし仏かな」
「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」
皆さん子規の俳句、何か御存知でしょうか?