「花無心招蝶
蝶無心尋花
花開時蝶来
蝶来時花開
吾亦不知人
人亦不知吾
不知従帝則」
良寛
「花は無心にして蝶を招き 蝶は無心にして花を尋ぬ、花開く時、蝶来たり 蝶来る時花開く
吾も亦人を知らず 人も亦吾を知らず、知らずとも帝則に従う」
花も意図的に蝶を招いたのでなく、蝶も花を尋ねようという心が働いたわけでもない、
要するに損得勘定が働いたわけではない「無心」である。
私は他人を知らない、他人も私を知らない、知らなくとも自然の大道にしたがって生きていく。
このように無心に生きられればこれほど楽しいことはないということだ。
この花と蝶、吾と他人と区別するのは本来の姿でない、利己はそのまま利他で利他はそのまま利己だ。
帝則=自然の大道・法則・原理原則
自他にこだわらない生き方とは、奪い取ったり、掴み取る手を与えよう、
捧げようと言う手に変えて行こうと心がけ、行動する事で、
そうすることが自他一如で生きれる良寛さんの言う「無心」だ。
ところが最近はプライドだ、プライバシーの権利、
プライベートな問題と自己主張するけれど、
良寛さんの言うように自分が生きるためには他が必要で、
他は一つや二つではない、人だけでなく万物の存在に支えられて自己が成り立つ。
損得、好き嫌い、醜美を区別する自分を二番にし、
「無心」に生きられれば、実に楽しく開放的なる。
道元禅師は良寛さんの「無心」を「同時」と言い、自他一如を解す。
みなさんは自他一如意識してますか?