自我の自覚

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近世の自我の自覚はデカルトである。
「我思うゆえに我あり」は誰もが知ってる。
これは思う自分と有る自分がわかれているのである。
デカルトの「我思う」は鏡に映った我であり、
右の耳は左になり背中は見えない我だ。
「思う我」と「有る我」が別々だ。

禅的には思う自分と有る自分が離れていない。
あくまでも現実の事実の世界で生きてる自分しかない。
これを「本来の面目」という。
だから「我は我なり」となるのである。
「天上天下唯我独尊」と言ってもいい。

思う自分と有る自分がわかれていないとは、
自分を客観化することではなく、自分を自分で反省する能力こそが自分だ。
反省する自分と主体的に行動する有る自分は一緒で「不二」「一如」ということだ。
目に見えないが一人二役をやってる「我」だから、「我は我なり」だ。

自分の光で自分を照らせというのだから光も自分、
照らされているのも自分で事実一人の自分で離れていない。
観念のない現実世界だ。
覚りなんかないよ「柳は緑花は紅」ただ現実がある。
自らを照らせ自らを省みよ!!

自分で自分のほほをつねったら、「痛い」と感じる。
つねる自分も痛いと感じる自分も、どちらも自分で「我」だ。

ダルマがインドから来て伝えたものは仏教でも坐禅でも覚りでもない。
「自我の自覚」に違いない。

皆さんは「我は我なり」でしょうか?

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