夏目漱石が晩年自分を表した言葉であることは誰もが知るところだ。
小宮豊隆宛に書いた手紙がある。
「僕の無私という意味はむつかしいものでも何でもありません。
ただ態度に無理がないのです。
だからよい小説はみんな無私です。
完璧に私があったら大変です。
自家撲滅です。
だから無私という字に拘泥する必要もないのです。」
漱石は「無私」にこだわることが無私の逆だと言いたいのだ。
「無私」とは生きている現実の姿だ。
無私とか去私というと自分の意見を持たず、欲望や雑念が減ったありかたと、
思われるのが一般的だが、文学の道を志すことに発奮する激しい決意と行動を言う。
「天に則する」とは自分の天分の限りを尽くす努力を惜しまないことを言う。
自分はその道に志すという意味で小説に乗り移った「我」で、
自我の欲得という立場から見ると「無私」であり「去私」である。
死ぬまで進化し続けるぞという決意でもある。
漱石も親しい、正岡子規も同じような心境を病床の中で綴っている。
「禅の悟りとは、どんな場合でも平気で死ぬことだと思っていたが、
それは間違いで、どんな場合でも平気で生きていることだとわかった。」
禅では覚ったふりする悟りを「野狐禅」という。
「則天去私」の意味を読み解き、
死ぬまでこの道を究めるという欲でいっぱいになってきた。
もう、いい年齢だからと物分かりのいい人間を演じることはやめる。
皆さんは一生今の道に没頭して進化し続ける決意と覚悟できてますか?