「横井小楠」に学ぶ

投稿日:2020年4月13日 更新日:

明治をデザインした人と言われる人物であり、政府に入閣を申し出られて翌年に暗殺されなくなっている。論語の憲問第十四「子曰く、古の学者は己のためにし、今の学者は人のためにす。」意味=昔の学ぶ人は己の修養のためにし、今の学ぶ人は人に知られたいためにする。このように学ぶのは世に名前を売るためだったのではいけないと横井小楠は考え「学政一致」でなければならないと主張する。

漢の宣帝は儒者は政治の要諦ばかり重んじて働きがないので、力ずくでも他者の上に立ち利害のみを考える人を用いた。学と政が二つに離れてしまっていたからだと言って、これを一致させる人材育成が大事だというのである。論語にあるように学問は自分を修め、書を読んだら、その社会的意義を講じ.篤学謹行の心失わず、世俗の事柄に気を止めないで、一人自分を修養を持って、五経を講じ、歴史書を談じ、文詩の妙に到達する人を言う。役人は才職器量があり、人情もあり、世務に通じて、事務に巧みで文筆が達者という能力のある人だ。しかし、学者は経済に暗くその用は不向き、経済を行う人は身を修めること自体を失ってしまい本末転倒する。今日の人もまた同じだから「学政一致」の教育体制が根本になければならない。

さらにモノの見方考え方の根本を「陰陽論」を据え、宇宙の法則は陰陽で出来上がっているので、矛盾こそ万物の生成原理と相対して対立してる関係にあるが同時に相補的な関係である。一方があるから一方があるという相互依存関係でもある。「陰陽を和して元と為す」正、反、合の弁証法の飛躍だ。したがって国家と平和主義は矛盾対立を両方生かして飛躍、高次元に統一すると考えた。

西洋に単に追いつけ追い越せでなく、東洋的なモノの見方をしっかり身につけ、文武両道のハイブリットな人材育成を目指した構想だったに違いない。武家社会の階級の中で育った人たちの間で、公僕として凛とした人物を目指す教育体制が受け入れられたかは疑問だ。西郷隆盛も明治十年には参議をやめ鹿児島に引っ込んだのは、あまりにも贅沢三昧な政治家たちに愛想がついたのである。人間とは弱いものだ。権力を手に入れると保守的になり自分を守りたくなるようにできているに違いない。この話は国家の経営ですが、商店や中小企業の経営でもあり、松下さんが言った社員稼業なら家庭の経営でもある。人材が世の中を創ってることに違いない。心して自問自答する。

皆さんは現代の教育事情をいかが思われますか?

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