「致知」8月号に西村恵信先生の対談が掲載されている。
先日、恩師のお墓参りで興福寺に行って先生と話したところだった。
鈴木大拙の特集で対談されていたが、3年前に金沢の鈴木大拙記念館にご一緒して、
詳しく説明を聞いたのは先生の教え子でした。
記事読みながら西村先生らしく、 一休禅師の「分け登る麓の道が多けれど同じ高嶺の月を見るかな」という詩に例え、頂点は一つだとしても登る道はそれぞれ違う。 八十年以上禅の道を歩いてきたが、山の半分の景色しか知りません。向こうの景色や咲いてる花について教えていただかないといけない。
このグローバルな時代にという自分のスタンスを述べられていた。
誠にそんな人柄でいつも学ばれる姿勢には学ばせてもらっている次第です。
さて、「誠」とは何かと考えた時、字の意味から考えて想像する癖がついているのが普通だと思っている。
ところが「鈴木大拙の銘語録」の中に「自利利他の原動力」という記載には以下のように書かれている。
「自分をむなし有するという工夫は、積極的に、他のために働くことです。他のために自分の労を惜しまずに、手足を動かしていると、自分のことが自然と気にかからなくなります。この手足を動かすということは何でもないようで、なかなか意味が深いのです。手足を動かして他のために尽くす、これを小さな時からならしておくこと、自然に自分の事のみを考える癖が少なくなり、 何かにつけて「誠」がやしなわれ、進行ができてくるのです。 昔、「一日作さざれば一日食らわず」といった人がいます。この「作す」というのは手足を動かすこと、働くこと、他のためにすることです。元来、生きるというのは動くこと、人間にとっては働くことです。ですから、働くことーーーーーこれが自利利他の原動力なのです。これで生きているかいとはなんであるかがわかり、したがって信仰が出てくる。「誠」がやしなわれるのです。」
誠とはという意味でなく、利他行をするプロセスに「誠」が養われる。 意味を知る事でなく、利他行をする行動、実践の中で養われていくというのである。
禅の素晴らしいのは知識としてでなく、行動の中ではぐくまれる現実が突き付けられるところだ。
宗教というより行動の在り方を学んでるように受け取るのは私だけだろうか?
毎日、利他的行動を行ってるか反省する次第だ。
皆さんは大拙先生の「誠」についていかが思われますか?