「道心の中に衣食あり 衣食の中に道心なし」伝教大師最澄の「伝述一心戒文」の中にある言葉だそうだ。
この言葉は恩師の小田切瑞穂先生に事業を始めて間もないころに教えていただいた。
現実は草創期のお金もないお客さんもない時代で、必死に働いてもトントンで道具一つも買えない時期であった。
先生は「世のために尽くし、志を持ってすれば、おのずと衣食はついてくる、道とは信念をもって実行すること」
このようにおっしゃられた。しかし、30過ぎの私にとって、こんなきれいごとでは世の中は通用しないと思っていた。
学者だから、そんな気楽なこと言えるんだと、あまり深く考えることもなく仕事を作る事に必死だった。
毎月一回、先生の講義を二時間、夜の六時ごろから全員で聞くのである。
講義は般若心経であったり臨済禄だった。墓石の施工や営業して身体は疲れてくたくたになっているが、意外と頭はからっぽで話に聞き入っていた。
法華経の比喩品の子供が遊んでいるとこに、後ろから火事になって襲ってくる。どう対処するかといった話だ。
何か現実とかけ離れた寓話を聞いているようで、肩の力が抜けほっこりした感じになったことを覚えている。
この講義の前に梅田の喫茶店に呼び出されて話があると言われた。
当時は東京から来ていただいていたので、電車代と講義料を払っていた。
すると先生から「これは手当か喜捨か?」と問われた。意味が解らず「どちらでも」と答えたら、「手当ならいらない。喜捨ならもらってあげる。君が持っていてもお金をよからぬところに使うから」と、このように強い口調で言った後、「君は資本の奴隷になったのか」というのである。「いえ、先生の言うように布施忍辱の精神でやっています」と言った。
言葉はそうですが、六波羅蜜の布施忍辱の意味が深くわかっていなかったのでしょう。その時はこの問答で終わりました。
その後、仕事をする中で、「論語と算盤」の渋沢栄一や二宮尊徳の「至誠、勤労、分度、推譲」という報徳の実践などを歴史に学ぶたびに、
恩師はこのことを伝えたかったのだろうと胸が熱くなる思いがする。そこまで叱ってくれる本気な人に出会えたのだと思えるようになってきた。
仏教では「四無量心」といって「慈悲喜捨」の心を諭しています。
慈無量心=友愛の心(慈しみの心を果てしなく果たせること)
悲無量心=人に対する同情と思いやりの心を限りなく果たせること
喜無量心=人を幸せにすることを喜び、亦喜びを自分の喜びの様にすること
捨無量心=とらわれを捨てて分け隔てなく接する心、それを限りなく果たせること
これを実行する条件は「克己心」だ。おのれを知って分をわきまえる。
そのためには歴史に学び読書を縦糸に、実践を横糸にする必要がある。
根本は利己心を上回る利他心を自分で養育することだ。恩師はこう教えたかったに違いない。
皆さんは道心ってどう行動することと思われますか?