「幸せ」は客観的なモノか主観的なモノか、あるいは相対的なモノか絶対的なモノか?
一般的には客観的で相対的なことが科学的であるという論法で説明される。
今朝の日経新聞に「幸せ中心社会に転換」という記事が掲載されていた。
そこには国連の幸福度報告が公表されていて、人生満足度を0~10の段階で答えてもらい平均値を国別に順位づけたものだ。
2017年の日本は世界で51位、2020年は62位だ。主要先進国では最低である。
ところが欧米などの個人主義の国は高めに評価して回答し、東アジアの国は集団主義社会で出過ぎないようにすることを重視し控えめな回答をすると書かれていた。
また、客観的なGDPの一人当たりのGDP所得から見た幸福度では日本は中くらいになるそうだ。(オランダ・エラスムス大学報告)
さらに個人のGDPで幸福度を計ると所得が7万5千ドル(分岐点)までは所得と感情的幸福(感情面で計測した幸福度)が高まる。
もちろんGDPが低いほど幸福度は低めで、7万5千ドルに増大するにつけて高くなる。経済が成長期にあるコミュニティーでは幸せを感じられるし具体的にも所得が上がるからだ。
7万5千ドルを超えると成熟した資本主義社会では定常期に入っているので、所得だけでなく他の幸福要因を満たさないと幸福度は向上しない。
確かに説得力がある相対的なデータによる証明だが、幸福の外的な条件を整えることは大事だ。
例えば、「所得が上がる」「時間が出来る」といったように生活環境に必須を得ることだ。
しかし人間の欲望は際限なく出てくるので、さらにその中身の質を細かく要求するようになるから幸福度は高まらない。
言い換えると幸福と生活の外的条件や本能的な個人的欲望を満たすことで必ず幸福になるとは言い切れないのである。
視点を変えると、社会に役立つか役立たないかが幸福度を決めるとも言える。
社会の中で必要とされる役割が果たされ、それを高め創っていくプロセスで評価をされることとも言える。
それを具体的に形に表すと所得であるし、生活環境であり、生活道具であるということになるとも言える。
世の中は唯物的な証明が科学的と考えがちだが、実はその人の心の持ち方という唯心的な見方を無視し過ぎていると感じる。
心を高めることや人間性を磨くことで外的環境や内的欲望をコントロールした真の幸福感が得られるに違いない。
幸福は自分で創る事が真に主体性ではないだろうか?
皆さんはいかが考えられますか?