不安は安心の原因〔因果の法則〕
「不安また良し」とは松下幸之助さんの言葉だ。
経営の神様はコインの裏表のように、裏〔マイナス〕の言葉を自分の中に取り込んで、
見事に逆の表〔プラス〕の言葉に返す融通無碍の人である。
私も昔から「石橋を叩いて渡らない男」といわれてきた小心者だ。
石材事業を始めたころは、いつか売れなくなるんではないかと不安になり、
石材の工業出荷高や貿易の輸出入高を調べ、
さらに火葬場の数や病院の数、死亡者数と月次の統計も調べた。
そこでわかったことは社会で生活するということは、
社会のハードウェアの処理能力の範囲内で調整されることに気づいた。
だから死は偶然でなく、社会的制約により毎月よく似た人数でなくなるのだと
わかったのである。
ここで「不安」は「安心」になったが、
また次に「不安」としてどうして必要な人に伝えるかが課題になった。
こんな風に「不安」は「安心」の原因であるから、
「不安」を100%受け入れ、その「不安」に負けず立ち向かいそれを克服するため、
自分と向き合うことが、新しい境地が開けていくのである。
ここで大事なのは、自分に「嘘」つかない、「素直」に事実を受け入れる勇気だ。
すべてはここを誤魔化しては「不安」は「不安」のままに先送りされるだけだ。
私は神経質なほうかもしれないが「危機」「不安」は感じるほうだ。
たぶん自意識が強く気が小さいからに違いない。
世間には逆に泰然として動じない人もいるが、無頓着で「危機」をわかっていないのは、
「盲ヘビに怖じず」でいつか事故を起こす人だ。
本物は「危機」を感じ「不安」を持ってはいるが泰然として覚悟が出来て有意注意して
行動する人だ。
一方私の若いころは神経質すぎて「不安」に押しつぶされ負けてしまう〔取り越し苦労〕と、
何にも行動できなくなる。
(自分の頭で妄想して「山よりでっかい獅子」を作り出して恐れ、身動き出来なくなるのだ。)
この原稿を書き終え、車に乗って走り出して事故を起こし死ぬかもしれないが、
自分にはわからないが現実起りうる可能性はある。
一寸先は誰にもわかりません。
二、三日前の茨城県で起こった竜巻で家の中に居た、15、6歳の男の子が
亡くなったことからも想像できるだろう。
〔本人は竜巻で死ぬとは考えてなかった〕
だから心の準備なく「危機」「不安」は起こる、
起ったとき全力で智慧と行動で対応するしか方法はない。
何にも起っていない「今」を真剣に生きるしか生きようがないと覚悟することが大事だ。
会社が続けられたのも、この「不安」「動揺」と向き合ってきたからだし、
向き合うことで自分を成長させられたように思う。
世の中には「安心」な事や場所はない、
「安心」は事実に真正面から向き合って、行動する中に生まれ出来ていくものである。
みなさんは「安心」外に求めますか?自分で創りますか?