努力の意味
道元は中国にわたり、良い師匠もいないので悩んでいたが、
最後に如浄禅師に会おうと門を叩く。
そこで道元は禅師に、
「仏性がある私たちがなぜ努力するのか?」質問する。
禅師は即座に答えられる。
「普通の人間なら何事も三日坊主で、君のように、そこまで探求はしない。」
「ところがお前は一心に探求してる」好感を持ったのですね。
さらに続けて禅師は「心塵脱落」(心塵=煩悩煩)悩から離れ抜けろとおっしゃった。
それを聞いた道元は「心身脱落」
心の煩悩も身体の煩悩も両方から離れ抜けることだと答えたのである。
あっぱれである。(あくまでも理屈の上で意味はない。禅は行動を教えてる)
参禅は心身脱落なりで、
五欲煩悩が除かれる唯一の方法で「只管打座」を提唱するのが道元だ。
しかし、道元はこの境地に止まってはならない。
衆生済度せよ、利他行の実践を尊ぶのである。
正法眼蔵随聞記には同じことを弟子に伝えてる。
弟子問う『人間には仏性があるのになぜ成功する人としない人がいるのですか?』
道元曰く『成功する人は努力する、成功しない人は努力しない、その差だ』
弟子問う『仏性のある人間がどうして努力する人としない人がいるのですか?』
道元曰く『努力する人間には志がある。しない人間には志がない、その差だ』
弟子問う『仏性のある人間にどうして志があるとない人が生じるのか?』
道元曰く『志のある人は、人間は必ず死ぬということを知ってる。
志のない人は、人間が必ずしぬと言うことを本当の意味で知らない。その差だ』
言い換えれると一瞬一瞬真剣に生きる、ひたむきに生きる。
小我を離れて(小我は無くなりはしない大我が大きく育つだけだ)
その時,生の本然が輝きを放つというのである。
努力の意味が感じ取れたが、怠け心が持ち上がるのも感じる自分がいる。
みなさんは道元の伝えたいこと感じられますか?