信心と信仰の違い
欧米の神は「エホバ(ヤーベ)」であり、
ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も兄弟関係のようなものだ。
現代のいろんな宗教紛争は兄弟げんかだ。
北アイルランドでは東西冷戦のように壁があり、
同じキリスト教なのに、プロテスタントとカトリックが分断されてる。
(歴史的にはプロテスタントが戦いには勝った)
さて、インドで生まれた仏教は当時のバラモン教(人間には階級がある)から革命的に、
御釈迦さんは人間の平等を解くのであるからびっくりだ。
エホバ(ヤーベ)を信じる人にとって、人間は神には成れないことになってる。
だから「信仰」神に祈りをささげ、神の加護を受けるという論法だ。
しかし神がいつでも助けてくれるかというと、神は罰も与える存在なのだ。
アダムとイブは神の言葉にそむき「りんご」を食べ、楽園から追い出されたことなっている。
「原罪」と言って生まれながらに罪を背負っているのが人間だ。
仏教は仏になる教えであって、普通の人間が出家し修行によって仏になるといのである。
坐禅和賛には「衆生本来仏なり、水と氷のごとくにて・・・・・・」とあり、
人間は仏になれるといのである。
だから信仰でなく、信心である。
自分が自ら信じる心になることだ。
方法には二つある。
自力本願と他力本願だ。
自力本願といえば禅宗のように坐禅の修業や公案の謎解きをして、
自ら身心脱落し深い自然の摂理を体得する
他力本願といえば浄土真宗のように「阿弥陀仏」を信じて、
人間としての欲や自我を捨てて、阿弥陀仏に身も心もお任せするといった方法で自然の法則を体得する。
「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで救われ、苦しい修行はなく簡単な方法だ。
中味の詳しいことは後日書くとして、
「信心」というのは自分の心を人間的な価値尺度「損得、好き嫌い、善悪」といったモノサシを、
180度ひっくり返し、自然の法則にあわせるという事なのだ。
これを唯識では「転依」という。
これでは自分がなくなると思われるでしょうがなくなりません。
今まで自分で体験してきた「常識」の自分がなくなって、
大自然の法則「良識」で判断する自分に180度変わるだけなのである。
だから、普通の人間が「仏」になれるのである。
しかし、そう簡単ではない。
一瞬は誰でもなれるが、常時仏の状態を持続するのは難しい。
なぜなら、人間には三歳いこう育った環境で、できた価値観(損得、好き嫌い、善悪)が、
無意識の領域に刻み込まれているから、よほど意識しないと自分の「常識」で判断してしまう。
「常識」は社会通念としてみんなが共有する部分と個人的な「常識」と二つある。
個人的な「常識」は細かいところで対立を生みますから、
なかなか人間関係が上手く思いどうりにいきません。
そんな時「良識」で判断する切り換えるにはどうするかが大事だ。
いろんな方法があるが、私は決断や判断するときに、
「動機善私心なかりし」と自問自答することにしてる。
おまじないのようなものですね。
皆さんも何かおまじない持っていますか?