口は禍の元
御釈迦さんが三十五歳で悟られ、その後諸国を巡礼されてた。
その巡礼先のマガダ国では大変な歓迎を受け、
王様も「ズーット滞在下さい」とおっしゃられたが、
使命を果たすために次の地に赴かれた。
名前は記憶が定かでないので忘れましたが、
この国では御釈迦さんと弟子が歩いていたら石が投げられ危なくて困った。
弟子が「御釈迦さんどうしてこの国の人は私たちに出て行けとばかりに石を投げるんですか?」と尋ねた。
御釈迦さんは「昔、ある夫婦がやってきて、
御釈迦さんの話しを聞いてどうしても御釈迦さんの弟子にしていただきたい」といわれて承知した。
夫婦のそばにいた娘も「お願いできないでしょうか?」と言ったが娘は美人で美しくその気がなかった。
そこで御釈迦さんは「君は美しいと鼻にかけているが、実は君の腸のには糞がつまっている」と、
「美醜、善悪、好き嫌いという分別をするから苦しみが来る」(悟無好悪)=悟れば好き嫌い無しと諭したところ、若い娘を辱めたようになってしまった。
その娘がこの国の御妃になってるそうだ。
だから、そのときの恨みを晴らすために石を投げてるのだ。
御釈迦さんも「あまりにも関心がない態度に、欲心を起こし、いらんことを言ってしまった。」
弟子はお釈迦さんに問いました。
「こんな時どう対処すれば良いのですか?」
御釈迦さんは「ひたすら耐えよ」とおっしゃった。
自業自得。
「口は禍の元」と言うことわざがあるのと同じですね。
御釈迦さんも完璧ではないようで、親近感の湧く人間らしい逸話だ。
般若心経にもある『般若』(はんにゃ、パーニャ・サンスクリトのパーリー語)というのは、
日本では「智慧」とか「慧智」と訳されるが、
本来は般若=「行智」(実践的な問題解決する智慧)を言う。
上記に書いた逸話こそが実践的般若=「行智」なのである。
決して考えるだけで判断や行動の伴わない「智慧」ではなく、実践的で実際的なものだ。
実にわかりやすいのだが、現代の仏教は教義だの、宗派だのといったことがうるさく、
実践的な「行智」から遠ざかってるように感じる。
仏教が生まれた当時は身近な生活の「行智」であったからこそ、大衆にも指示されたように思う。
みなさんは日常生活の中で『口は禍の元』感じたことありますか?