「中庸」と「中道」の違い

投稿日:2020年11月13日 更新日:

孔孟と言われるのが一般に儒教で老荘が道教だ。
「中庸」は論語の雍也第六「子曰わく、中庸の徳たるや、其れ至れるかな。民鮮きこと久し」
意味=孔子先生がおっしゃられた、中庸の徳というものは完全で最高だ。しかし、一般の人の間で行なわれなくなって久しい。
今から2500年前の春秋時代に政治をするために説かれた孔子は極端なことを嫌い、「仁」を「礼」によって規律を以て「忠恕」すなわち誠実で思いやりを持って行動すれば「徳治」ができる。

さて、一方お釈迦さんの「中道」は29歳に出家し3年間の精神修行3年間の肉体苦行という両極端を体験して導き出した。
山田無門流にいうと「中道」とは1.勇気2.情熱3.創造力で現実に飛び込み自らの中道を具現化する。(冷暖自知)

お釈迦さん流に言うと三つある。
1.苦楽の中2.有無の中3.断常の中
お釈迦さんは初転法輪で「四諦説」を述べられている。
人生を「苦」ととらえて、苦しみが集まったから滅ぼすために行動しよう。「苦集滅道」である。
我々凡人はこの三つのどこを見つめて生きているかというと「楽」「有」「常」である。
因果の法則から言うと我々の見つめているものは結果なのである。
現実は「苦」「無」「断」であることを自覚することだが、これは二元的な説明に過ぎない。

結論から言うと「苦楽」「有無」「断常」を分別しないで、その真っただ中に入って冷暖自知を実践することだ。
決して現実から離れて傍観的で虚無的な実践のない苦楽、有無、断常の中ではないのである。

現実は本能に支配されている人間は楽を追うのだが、仮に苦を追うとしたら必ず他人と競ったり張り合うが、無いを追うと神秘主義的に核の世界に入ってしまうし、断とは断見と言って、一瞬を断ち切ることだが連続性がなくなる。
一方常見はいつまでもこの事実が続くと妄想してしまうことである。

「中道」とは道元流に言うと「身心脱落」して外的な縁(刺激)にも、自分の内からの欲望にも左右されない無心な自己を持つことで苦楽、有無、断常の中ということだ。

唯識では「断滅の見」というのが断見で、これはドミノ倒しを創造くだされば解りやすく、「刹那滅」に「心相続」一刹那は切れているが心は続いていると相続される。これこそ中道で「断常の中」である。
実に現実は西田幾多郎の言う「絶対矛盾的自己同一」である。

皆さんは中庸と中道の違いいかが思われますか?

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