「それ良知の説や簡高にして、格物の功や切実なり」
意味=「良知の説は簡潔で高尚で、格物の実践は切実で痛切です」
方谷は備中松山藩の財政を立て直したことで知られているが、それだけに留まらず、人生に向き合う姿勢についても語っている。
京都へ遊学に出ていた時に親交のあった春日潜庵(かすがせんあん)に宛てた手紙がある。
「王陽明の学問は誠意を主とします。誠意には致良知(ちりょうち)と格物とがあります。そして致良知は、必ず格物とともにしなければなりません。致良知によらなければ、誠意の本体を見ることはできず、また、格物によらなければ、誠意の実践はできません。致良知と格物、この二つが揃って初めて誠意が実践のものとなります。
世の陽明学を唱える多くの人は、口でその学説を述べるのみで、大切な実践を忘れています。しっかり学び、誠意の学問に従事し、それを実践努力の中で試してみること。その実践こそが大切で、そこで初めて王陽明の本意に辿り着くでしょう。
生徒は、意念を誠実にすること。そのためには実践的努力なしにはあり得ません。」
「格」=正す、「物」=物事・人の言動の一つ一つであり、百般行為の不正を正しくしていくのは「格物」です。
「致良知」は良知を致すと読み、「良知」=人間が本来生まれながらに持っている是非・善悪を判別する自然な心(真我)、「致す」=発揮する(磨く)という意味です。
人は放っておくと「良知」が曇る。
王陽明は人の心を明鏡に例え、常にこれを磨き続けなければならないと言っている。
吉田公平先生は「聖人とは悟りきった人ではなく、間違いを冒しつつも気付いたら反省し、努力して実践し続ける人」と言っている。
中国・唐の時代の白楽天が鳥窠(ちょうか)和尚に「禅の道を学ぶ基本は?」と尋ねた。
和尚は「諸々の悪を為す事勿れ、諸々の善を勇気をもって奉行(実行)しなさい。」と答えた。(「諸悪莫作 衆善奉行(しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう)」)
白楽天は内心「その程度の事なら三歳の子供でも知ってるわい」と思った。
それを見抜いた和尚は「白楽天よ、よく聞きなさい。三歳の子供でも良いこと悪いことは知っている。だがそれを実行するのは百歳の翁でも難しいことである」と諭された。
まさに「知る」と「できる」では雲泥の差がある。
その前には「知らない」と「知る」でも雲泥の差がある。
知らないで何でも平気でやる人のことを「盲蛇(めくらへび)に怖じず」ともいう。
何事も「知って」自分で行動して「できる」ようになって、「できる」ことを持続させるには日々の努力がいる。
1670年に岡山藩主・池田光正によって創られた庶民も学べる学校、閑谷学校がある。私も何度か尋ねたことがある。山間の静かな中にある講堂は国宝に指定されている。
山田方谷は財政を立て直しただけでなく、何万両と蓄財もしたのである。
「知」と「行」が一になって現実の課題を解決し発展進化させることを証明した哲学観だ。
皆さんは山田方谷の仕事・人生に向き合う姿勢いかが思われますか?