「西洋と東洋」に思う

投稿日:2019年7月19日 更新日:

私の思考は西洋が相対的、東洋が絶対的と対立させて考える習慣がついていると最近感じる。
たとえば、論語に「己の欲せざるところを人に施すなかれ」
これをマタイ伝の第七章にある「人々からして欲しいと望むことは人々にもその通りせよ」
これを論語長で訳すと「己の欲するところを人に施せ」となる。
論語はあくまでも自分が主語だ。
自分の心の中の「仁」を目覚めさせる事が主眼だ。
しかし、「人々からして欲しいと望む」というのは人間を俯瞰して、
絶対者の神から見た視点の表現で、世の中が主語になる。
だから世の中で生きていくにはどうするかという神の声として意味を理解する事だ。

同じような例を出せば、マタイ伝7章の13節、14節にある。
「狭き門から入れ、
 滅びにいたる門は大きくその道は広い、
 命に至る門は狭く、その道は細い、
 そしてそれを見出すものは少ない。」

この神から見た狭き門という意味は、
財産、地位、名誉、知識や美貌、武器といったこの世のものを持ったままでは
天国の門は通れない。
それらの人間的価値観を捨てなければならないということだ。

世の中の基準ではそんな外面的なことが評価されるが、
その人間的な価値を捨てなければならない。
まさに、仏教的には人間の本能的な五欲七情を捨て、
六根清浄(眼耳鼻舌身意)にして、
人間的な執着を捨てることを意味する。

これは千利休の茶室の「にじりぐち」の発想と同じだ。
約2尺(60センチメートル)の高さで頭を下げる。刀を抜いて全員が平等の立場になる。
世の中における立場や地位を捨てる空間を作り出した。
「市井の山居」と言われ、世の中のいろんなしがらみはあるが、
まるで山に静かに静寂を楽しむ心境で一服の茶を嗜むのだ。
これも俗世にありながら人間的な価値をかなぐり捨てることを意味する。

洋の東西を相対、絶対と区別する論調でなく、
人間、個人を磨く観点が東洋で、
世の中を生きぬく観点で説かれているのが西洋流だ。
個人の心を深め高める東洋的な発想は人間的価値を小さくする利己心になる可能性がある。
一方西洋的な世の中を生きぬくために諭されてるが、
現実主義の効率的な行動をするギブアンドテイク的な利己心になる可能性がある。
だから、相対絶対という価値を超えた超絶対的な価値こそが自分独自の真我ではないでしょうか?

皆さんは相対絶対をどう超えられていますか?

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