仏教では「物心一如」という言葉があるように、○だ✕だと分別しないということを強調する。
無分別知を諭す。
私たちはいつも相対的に比較してモノを見る癖がついて、
善だ悪だ。損だ得だ。好きだ嫌いだと選択してから考え出す。
自分と他人は別物として考えをスタートさせる事が当たり前と思い込んでいる。
だから、他人と比較し競争する事が努力と勘違いしてる。
本来の努力とは自分のうちにある四つの壁(後ほど詳しく書く)を取り去って、その奥にある魂を引き出すのが努力である。
魂(良心・利他心)には宇宙の法則そのものが仕込まれていて、自由自在に物事の真実をつかめる解決することができる。
人間にも動植物にも自然にも善悪は書いていない。
道元は「善悪は時なり」と言っているのである。
善悪は行為の結果、決まるものである。
だから、魂レベルでは人間はシンクロニシティー(共時現象)を起こすのである。
言い換えると自他が一如となり共感し合えるのである。
さて心の芯にある魂(良心・利他心)を四つの壁について書くことにする。
1、外からの情報を受ける知性と言う壁(一番外側)
2、感性的に感じる壁(外から二番目)
3、感性が感覚と結ばれ感情の壁(外から三番目)
4、本能・煩悩問い自己保存の壁(外から四番目)
この四つの壁が頑固にこびりついて、魂を取り囲んでいる。
この壁を取っ払うのに、仏教修行者が読経や坐禅やいろんな修行をするのは心の浄化作用だ。
私たちは仕事をしているのでそんな方法ではこの四つの壁を浄化することはできない。
逆に言うと仕事の中で実践する以外方法はないのである。
努力とはこの四つの壁を取り去るために自分と向き合う行動を言うのである。
その方法が「利他行」一番の心の姿勢であり、
「動機善私心なかりし」という心構えである。
皆さんは努力の意味どう思っておられますか?