漱石が10月23日のロンドンから帰国する船中で、
狩野享吉宛に書いた手紙に、
「今までは己の如何に偉大なるかを試す機会がなかった。
己を信頼した事が一度もなかった。
朋友の同情とか目上の御情とか、
近所近辺の好意とかを頼りにして生活しようとのみ生活していた。
妻子や親族すらも当てにしない。
余は余一人で行きつく所まで行って、
行きついた所で斃れるのである。
それでなくては真の生活の意味が分からない。手応えがない。
何だか生きてるのか死んでるのか要領を得ない。
世の生活は天より授けられたもので、
その生活の意義を切実に味わんでは勿体無い。
金を積んで番をしてるようなものである。
金のありったけを使わなくては金を利用したとは言われぬ如く、
天授の生命をあるだけ利用して自己の正義と思うところに一歩でも
進まねば天意を虚しくする訳である。
余はかように決心してかように行いつつある。」
ロンドンで西洋の個人主義に触れて、激しく決意する様子が書かれている。
日本人的な自立とは自己を捨てる事で無我になることだ。
ところが西洋では誰にも頼らないで自分で道を切り開く事が天から授かった命を全うする事だと感じたのだろう。
自分に頼ってきた事のないことに恥、また自分に頼ってどうなるかは生きてみなければその頼りがいも解らない。
一回きりのチャレンジであり、不安がある。
だが逆に、そう生きることによって納得と安心も感じられると確信したのだろう。
世のために自己の命の可能性を引き出す自己との戦いを宣言したのだ。
欲望や他人の好意や他人の生きかたに振り回されてきた自己のない命の使い方と決別する決意を感じる。
日本の社会の根底には「無分別」ということが正しいという概念がある。
「お互い様」と助け合う「自他不二」の無分別の価値が文化としてあるように感じる。
具体的には地震などの災害が起こったとき、みんな我先にとモノの取り合いやパニックにはならない。
秩序正しく、気使いし助け合うのである。
昭和はまだ日本文化は助け合い出会ったが、平成の世になって西洋的な自己責任社会の個人主義の風潮になってきているように感じる。
多様な生き方を認める社会で、それが個性というのであるが、
漱石のような、誰にも頼らない独立自尊の天命を生きる覚悟の個人なのか、
自己責任をとらないでの利己主義的個人なのかが問われるように思う。
皆さんは現代の風潮を漱石の決意の個人主義と思われますか?