「死は自己完結」

投稿日:2021年8月9日 更新日:

小学校4年生の時、浜寺公園の海水浴に連れて行ってもらった。
一緒に行った人がボートに乗せてくれて沖に出た。
「泳げるか」と言われて、足がつくと思って飛び込んだら足がつかずパニックになって、三回か四回沈んだり浮いたりして、次の瞬間今まで体験した過去の映像が走馬灯のように頭の中でよみがえっていった。
そしてまた次の瞬間は自分の肉体が人工呼吸されている姿を右上段から見ている自分が出てきた。
たぶん心臓が止まっていたのでしょう。みんなが紺の海水パンツを穿いた小学校4年生だった自分の顔をのぞいて見ている。
そして「ゲプッ」と水を吐いて、上を向いてみたらたくさんの人の顔が見えて生き返ったのである。

身体の筋肉が弛緩しているのでボーとした感じがして身体が浮いているような感じがした。
医者に診てもらって、タクシーに乗って帰るのだが、瞳孔が開いてしまったので焦点が絞れず、光が多く入ってきて雲の上を歩いているような気分でふわふわしたところの真ん中に観音様のような柱が立って、そっちに向かって引き寄せられ眠くなると、同乗者に顔をぱちぱち叩かれ起こされることが何度かあって、家に着いて注射を打たれて寝かされた。

死は一瞬であった。
そして、息を吹き返した体験は気持ち良く雲の上を歩いているような幻想的な風景と心地良さだった。
だから私は「死」が怖くないのである。

私には何か使命があるのだろう。だから生き返ったのである。
「死」は自己否定でなく自己完結で、最後に出会う現実だ。
いつ来るかは私にも分からない。

自分の頭で意識的に思っている自分がなくなったら、本当の自分が出てきて最後に出会うのが「死」
目は目を見ることが出来ないように、自分が自分を知ることはできないが、「出会い」が自己を形成していくのである。
「今」「ここ」で出会ったことで自分が形成される。
西田幾多郎は「個人があって経験するのでなく、経験があって個人がある」という言葉を残している。

社会と個人の関係も全く同じで「社会があって個人がある。個人あって社会があるのではない」
ホモサピエンスは自己保存本能と同時に自然を改革してきた矛盾を生きたからこそ万物の霊長となった。

すなわち「生死一如」という禅語があるように、人間は保守的に守るということと、進化発展させるという矛盾した存在であることを意味する。
生は死の中にあり、死は生の中にあるということになる。
完結が死であるというのは「経験が個人を創っている」というのと同じで、生きることは完結へ向かって死ぬことである。

「出会い」はまだ見ぬ未来の自分を形成していく。
自然と社会と個人は同心円なのである。
「出会い」によって形成されていく新たな自己に出会う。
白隠禅師の『坐禅和讃』に「いつか生死をはなるべき、それ摩訶衍の禅定は、称嘆するに余りあり」とあって、善行をすることと書かれてある。
一度死んだ命、人の為に役立てばいい。
まだまだ相対的な自己意識に埋没している未熟な自分がいることは確かだ。
一歩ずつ「出会い」経験を積むことを重ねることだと反省しきりだ。

皆さんは死が自己否定か自己完結かどう解釈されますか?

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