「一人一宇宙」について

投稿日:2021年8月13日 更新日:

禅では「一人一宇宙」と言いますが、「なぜ座る(座禅をする)のか」というと、これはあれこれ屁理屈を考えるのでなく、実際の行為の中にあると言いたい。

道元禅師は「只管打座(しかんたざ)」と言って、ただ座ると言い切る。
永平寺で火事が起こり、雲水たちは右往左往していて、道元禅師に「早く逃げてください」と言った。
ところが「私はこの法を伝えるために座っている」と言って坐禅を崩さなかった。

道元の「正法眼蔵」の現成公案に「仏道をならうとは自己をならうなり、自己をならうとは自己をわするるなり、自己をわするるというは万法に証せらるるなり」とある。

禅では作務と言う庭掃除などの掃除を雲水がする。この掃除は一般の掃除ではない。
一心不乱に我を忘れて集中し、まさに眼聞鼻舌身意の六根に感じる箒から伝わる外の世界である。
脳の中にある自分でなく(意識でとらえている自分)、脳の外の世界をとらえている自分が「無」の自分だ。
だから万法をとらえて脳が感じている。外の世界と一体化した自分だ。自由で自在な自分こそ本来の自分だ。

「柳は緑 花は紅」に成りきっている自分だ。
それは「一人一宇宙を知ることでなく、一人一宇宙に成りきる」ことだ。
臨済はその段階を「四料簡(しりょうけん)」と言って鐘と撞木(しゅもく)で語っている。
「鐘が鳴るか撞木がなるか 撞木はならない鐘が鳴る
鐘が鳴るか撞木がなるか 鐘は鳴らない撞木がなる
鐘が鳴るか撞木がなるか 鐘と撞木の間で鳴る
鐘が鳴るか撞木がなるか 鐘と撞木で音がする」

坐禅が深くなると「鐘と撞木の間で鳴る」と主客が消える。
これは禅で言うところの「円相」である。
そして次の段階で、鐘と撞木で音がすると現実の事実の中に成りきった自分がいる。

皆さんは「一人一宇宙」知っているだけですか、成りきっていますか?

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