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「人間形成における自由」とは

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人間が人間になるには精神の自律と自由自在である事であろう。
しかし、肉体は寝て食べて動き回ることによって自動的に成長し、死に向かって衰えていく。
精神は少し遅れて気付き出す。肉体的な躍動感は外の世界に興味を持ち、自分に必要なものを獲得しようとする。
自然の偉大さや不可思議さに興味を持って、さらには社会生活を維持するために人間集団に興味持ち、社会的な自我形成をしていくのである。
自己中心的な自我から社会的な自我が形成される時に人は不自由さを感じる。

そんな時、宗教と関わる。
宗教には二つの機能がある。
1.社会維持機能(伝統の中に足場を置く保守主義)
2.社会改革機能(日本では一向一揆に代表される)
世界各国の文化の深みには必ず宗教が織り込まれている。

さて、昔のような村落共同体では極端に価値観が違うことはなく、掟や村を存続させる伝統的儀式を行うという束縛があったが生活は維持できた。
しかし、生産力が上がり分業が進むと、村が町になり、そしてさらに都市になると、いろんな職業が出てきて価値観も違ってくる。
本来の自由とは自分の欲望の赴くままに生きることではない。
古典的な理解ではむしろそれは隷属であって、自由とは自己統治を意味する。
人間は生まれながら自由でなく、習慣と学習と徳育によってはじめて自律し自由となる。
現代の人間は自然や共同体(村)から切り離され、伝統的儀式やしがらみから解放され、自分の意志のままに生きるようになったが、一方公共心の欠如、政治への無関心は今後の課題である。

人間は自分の自由を得たいと欲する動物であるが、その前にそう考えられる肉体と精神が造物主から与えられている。
まずは、このことへの感謝の念を持って、自分の人生を掴み取るというのが造物主に対する謙虚さだ。
感謝は幸福の誘い水と言われるのは以上のような意味からだろう。

皆さんは人間の造物主に対する感謝を第一義にされていますか?

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