剣道では「機先を制する」という言葉があるが、「相手より先に行動して、計画や気勢を制する」という意味だ。
剣道では「気」を重要視する。
「気」とはエネルギーであり、目に見えないが四方八方に張っている。
時代劇で剣客が殺気や人の気配を感じるというものだ。
「観の目強く、見の目弱く」と言われるのは、気の目を張って肉眼で見える目は弱くするという意味だ。
「気」が入ると不思議なことに5つの力が湧いてくる。
1.相手の気配を感じる力(人数までも解るのは空気や自然な音の反響音で察知かもしれない)
2.心の声が聞こえる力(叫びや悲しさを心に抱いている意念を感じる)
3.少し先の未来が見える力(覇気をもって肩の力を抜き自由自在の体をつくる)
4.「生き物の感情」を感じる力
5.気配が見える力(脳裏に映像として浮かぶ)
実際修行を積んだ剣客は自分の心と身体を意のままに動かすには「気」を入れるのである。
武道では「三つの先」と言うものがある。
1.先々の先・・・構えていざこれからという瞬間の隙
2.先・・・対の先、先前の先、試合が始まった時の呼吸の隙
3.後の先・・・待の先、打たれて次の姿勢に入る隙
「気」の隙は呼吸の二か所である。吸う時と吐く時の一瞬が気の隙なのだ。
鎖国をしていて欧米文化が入っていない時代に確立された「気」のエネルギーと「意」の技が相まって、剣術が剣道になるのである。
道術一如と表現もできる。
現実を相対化する西洋の理性(意)から物事を観察して法則を導き出す方法でなく、鍛錬して体得する相補的(一如)な見方を良しとするのが日本的な文化のベースになっている。
戦後は経済並びに生活の欧米化が進み、理性を磨き、相対的なモノの見方が全てのようになって、理性を超えた日本的な道術一如の世界観が「あいまいさ」とか「中途半端な考え」と捉えられ、二宮尊徳流の「道徳なき経済は罪悪、経済なき道徳はたわごと」と言う「経道一如」の本来のビジネスがなされず、お金儲けを第一義とする経済活動が主流になっているように感じるのは私だけだろうか?
皆さんは「三つの先」を実践する道術一如どう思われますか?