仏教は心の病院であるとおっしゃるのは佐々木 閑先生だ。
また別の言い方では「苦しみを消すには自分自身を変えるしかない」とも断言される。そのうえで、釈迦の仏教は「自己鍛錬システム」と言われ、
一般に言われる宗教ではないというのだ。
私はこの先生の言葉がしっくりくるのである。
ダンマパダの一説に「恐怖にかられた人々は、山に、林に、園地に樹木に礼状にと、
しかし、様々な場所に救いを求めようとする。しかしそれは安易な救済所ではない。
それは最上の救済所ではない。そのような救済所へ来たところで、すべての苦しみから逃れることなどできないのだ。」
「努め励むことは、死を離れた境地である。怠りなまけることは、死んでいる状態である。努め励んでいる人々は、死ぬことがなく、怠りなまけている人は、死んでいるようなものだ。」
「自分で自分を咤せよ。自分で自分を制御せよ、比丘よ、自己を護り、
正しい思いを持ち続けるならば、お前は安楽に過ごすことができる。」
仏陀が80歳になって、ベールバー村に差し掛かった時大病を患います。
弟子のアーナンダを呼び自分がいなくなった後のことの心構えを諭す。
これが涅槃経の有名な「自灯明」「法灯明」だ。
「自分自身(主体))を島とし、自分自身を救いのよりどころとして暮らせ。
ほかのものを救いのよりどころとしてはならない。法(教え)を島とし、法を救いのよりどころとして暮らせ。ほかのものを救いのよりどころとしてはならない。」
釈迦の仏教は救済を求める祈りの宗教ではなく、自分で進む自己鍛錬の道として確定する。
日本では心を照らす灯明と訳されたが、インドは洪水が多いのでしがみつく小高い島(主体。自分)がいる。
発音が似ているので中国語では灯明と訳された。(ドウ―ビーパ島)(デイーパ灯明)インドのパーリー語だそうです。
日本の宗教では自力本願とか他力本願と言いますが、生きるための唯一のよりどころは「自分自身」であり、
釈迦が解き明かした諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の法のことだ。
法(釈迦の説いた)にのっとって自分を磨くことが自分を助けるんだということだ。
皆さんは釈迦の説いたことは自分の内を磨けということで努力を惜しむなと励ます法と思いませんか?
「ダンマパダ(法句経)」に学ぶ
投稿日:2024年11月17日 更新日: