諸子百家時代を代表するのは孔子・孟子・老子・荘子だ。
人間は善であるからこそ「仁」を磨き、「無為自然」に振舞うとした。
韓非子は「人は利によって動く」と言って善悪を問いませんでしたが、法によって治めると説きました。
孔子から250年後に現れ、荀子は性悪説をとって論を展開する。
私たち人間を創ったのは自然だから、無意識に自然の法則に合わせるのが、最も素晴らしい生き方と思い込んでいるところがあるが荀子はどうこたえるでしょう。
荀子は「あるがまま」がよいとはかぎらないというのである。
「人の本性は悪であって、それを善にするのは人為によるものだ。今、人の本性には生まれつき利益を好む傾向がある――、また、生まれつき人を妬み憎む傾向がある――そうだとすれば、人の本性に従い、感情のまま行動すると、必ず争い奪い合うことになり、社会の秩序が乱れ、ついに天下に混乱きたす」というのである。
「天地は君子を生む。君子は天地に理を与える(すなわち、天地を治める)
君子というものは天と地と並ぶものであり、万物を統べるものであり、民衆の父母である。君子がいなければ、天地に理はない。」
意味=天地(自然)をありのままに受容することは有害だ。
世界はどこまでも人間が作り出したもので自然は素材提供した父母なのだという。
当時の世界では軍事力で他国を奪い合う時代で、老子のような無為自然に生きていていいはずがなかった。
時代の混乱無秩序の世界の中で、積極的に自然要素を織り合わせ、世界にパターンを作る人間像を描いた。
先人の孟子は自己修養に着目し、老子は物事を結ぶという観点で素晴らしく、孔子はより良い人間になる「礼」を重んじたところも踏まえて論を展開した。
「自然に生まれ、そのままの状態にあるのを性という。あるがままに感応して、干渉を受けることなく自然のままの状態にあるものを性という。性の好悪喜怒哀楽を情という。情がそのような状態のとき、心が作用してどれかを選択することを慮という。心が思慮したうえで、体がそれを行動にあらわすことを偽すなわち人為という。」
荀子は自分の本性に働きかけて、感情や衝動を修め律するべきと説いた。
人為的に構築した「礼」を持って本性の行動パターンを根づかせるというのである。
「人の本性というものは、そもそも出発点であり、素朴な素材だ。
人為というものは、修飾性と合理性のある盛大なものだ。
本性がなければ、人為を施すべき素材もない。しかし、
人為がなければ、本性はそれ自体で美しくなれるわけではない――
人の本性と人為が一体に合うとき、天下が治まる。」
天から与えられた私たちの本性は、人の行為によって理がもたらされるのを待ち構える。
その結果、実に美しいものが生まれるというわけだ。
人間が自然に働きかけ知恵と創造力で「礼」を持って行動すると、美しく理に合ったものが生まれるというのであろう。
皆さんは荀子の人間観いかが思いますか?

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