この言葉は凡人がどっちの結果になっても言い訳できるように使うものではない。
現実の客観的な状況では因縁によって「時には善となり悪となる」という深い言葉だ。
吉田松陰は
「私心さえ除き去るなら、
進むもよし、退くもよし
出るもよし、出ざるもよし」
この心境は自由で自在な心の持ち方を言っている。
ここまで、人間の持ってる五欲(食欲、色欲、睡眠欲、財産欲、名誉欲)に打ち勝って、
己を超克できるかということだ。
松蔭は国家が外国の植民地にされるという危機を感じ、志に動かされていたのである。
明治の志士たちは、みな同じ志だったに違いない。
「大学」の序文に「明徳を明らかにする」とある。
これには二つあるといわれる。
1.人間学(本学)=自己を追求し品格、徳性を磨く、言い換えると五欲に打克つ。
2.自分学(事務学)=社会で生きていくための知識と技術を学ぶ、磨くのである。
この二つは全く方向性が違う。
凡人の私などは「誠」がある時と「誠」がないときがあり(ムラがある)、一本筋が
通っていない。
賢人といわれる人は「誠」であるべく努力を惜しまない人だ。
聖人といわれる人は、自然に耳に従って「誠」ができる人のことだ。
これには不屈の辛抱と修養がいる。
孔子は「知好楽」と、
知ることより好きな事のほうが良い。
好きな事より楽しい事のほうが良い。
継続して行えるというのである。
もう一つ付け加えれば「遊」、あそんでいるかのように行動できたら最高だ。
皆さんは善悪は時なりと自由で自在な自分づくり、どうされてますか?