書道を習っていて、「字が詰ってるね」と先生に言われ、
「もっとのびのびと書きなさい。息が止ってますよ」
「ではどうすれば良いのですか?」と質問した。
意外な答えが返ってきた。
「歌を歌いなさい」「春よこい早く来い・・・・・・」と歌われた。
そうなんですね。
肩の力が抜け、呼吸をしながら自然体で緊張感なく書けますね。
「のびのび書けた」と褒められる。
この指導にはびっくりした。
普通なら「呼吸をしなさい」と指導しそうだが、
呼吸は意識してしないので、仮に呼吸しなさいといわれると、
意識しすぎて緊張感は取れなく、逆にリズム感がおかしい呼吸になっていただろう。
「自未得度先度他」とはまさに歌を歌いなさいなんですね。
どんな人も基本は自分の欲(利己心)を満たして、
その後他人を助けてやるというのが普通と考える。
ところが、この言葉は自ら、未だ得度(悟りを得ていない)なのに、
他人を助けろというのである。(逆をやる)
「呼吸を整えなさい」といわれたら、
誰しも自分の内なる呼吸に注意を払う。
ところが普段意識しないで呼吸しているものを、
整えるのに考えてしまい、逆に呼吸は整わない結果になるのが現実だ。
自分の外に目を向ける事で、結果自分の心を整え実現させる。
利他行をすることは同時に利己心も満足させる結果となる。
これが仏教で説く「自利利他」という意味だ。
自分の内を見ると三つの火が燃えている。
内を見れば見るほど燃え盛ってどうにも止らないようになる構造にできてるのが人間の心だ。
1.「貪り」の火=目で見、耳で聞き、鼻で嗅いで,舌で味わい、体で触れてみる。
実感があて、もっと、もっと他のもの良いものを貪るのが人間だ。
2.「怒り」の火=目で見、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、体で触れる。
しかし、自分が嫌いなものは排除して怒り、憎しみ、嫉妬の感情が湧いてくるのも人間だ。
3.「愚かさ」の火=物事を知らないというより知ろうとしない。
言い換えると無関心に自分の心をシャットアウトしてしまうのも人間だ。
この三つの火はモノや人間や事情を通じて燃えるのだ。
決して火が勝手に火にはならない。(水は自分があり、方円に従う柔軟性がある)
火はモノと人間や自然、事情などの関係性で火が生まれるのだ。
それはモノも人間も自然も自分の中に取り込もうとするからである。
この自分の内面を見れば見るほど火は燃え盛り、
思い道理に行かないと自分をも燃やしてしまう自滅の行為まで行く。
だからこそ、人間は三つの鏡を持たなければ自分が見えない。
1.自分鏡(ほしいほしいの欲が映る鏡)
2.他人鏡(うらやましい、うらやましいという他人に嫉妬する鏡)
3.仏鏡(自未先度他と利他行に徹する鏡)
この三番目の鏡に気付かないと迷い苦しみ悩むのである。
白隠禅師の坐禅和讃に「衆生本来仏なり、水と氷の如くにて・・・・・・」とあるように、
自分の心の鏡を利他行に向けさえすれば、ほしい貪る心も怒りの憎い心も、
無関心な愚かな心も利他の行動の後ろえ隠されてしまって、
表にはでてこないというわけである。
御釈迦さんの説法は実に簡単な説法なんですね。
皆さんは利他行一番で楽しく生き生き生きられてますか?