「阿弥陀さまよ、どうぞ自分の煩悩を皆取ってくださるな、
これがないとあなたのありがたさがわかりません」
これは真宗の妙好人の人の言葉だ。
人間は不自由の中にいてこそ、自由、自立の働きができる。
もし何でも叶ったら自由、自立もなくなってしまうということだ。
妙好人の浅原才一は、地獄、極楽について以下のように語る。
「このしゃば(娑婆)せかいから、ごこらく(極楽)に
生まれるはやみち(早道)は、ほかにない。
やっぱり、この娑婆世界なり。
娑婆の世界も、なむあみだぶつ
極楽の世界も、なむあみだぶつ
ありがたいな、ありがたいな
さいいちが、このめがさゑ
なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。
わしゃしあわせ、思うてもみよ(思うて見よ)
なむあみだぶつしてもらい、
浮世から、なむあみだぶつで、浄土たのしむ、
なむあみだぶつ、むかいとられて、
なむあみだぶつにつれていなれる。」
どう感じますか、皆さんは
なむあみだぶつと才一は同一であり一如である事だ。
あみだぶつ「と」才一でなく、あみだぶつ「の」才一だ。
あるとき才一にあなたが木片に書いたものを本にしましょうといってきた。
才一は「私は将来罪を犯すかもしれない、君それでも出すか」と言って断ったそうだ。
実に素晴らしい。
不完全な人間、不自由な人間、善悪に惑う人間の心のそこからの自覚がある。
ただの人の自覚。
だから、他の自由を尊重し、他の不自由を共感する事ができる。
それは才一と阿弥陀さんが同一体だからだ。
才一は現実の中で極楽に生きかされているのだ。
江戸時代の至道無難禅師の言葉に、
「生きながら死人となりて成り果てて、おもいのままにするわざぞよき」
皆さんの自由、極楽は「今ここ」にありますか?