自主独立するのが大人になることだ。
社会生活するうえで、生活の糧を得るために社会の運営に必要な役割の技術を身につける。
日本は大学まで基本は一般教養で専門職の知識や技能は別の専門学校で学ぶ。
だから実際には理科系の技術者志望の人は企業でも商品開発などの部所に配属できる。
文科系の学びをした人は人間相手の営業活動か社内のマネージメントに着くが、
基本的には専門知識を習得したわけではないから会社に入社して学ぶ。
大学は出たもののどんな道にどんな専門的な技能を身につけて、
どんな仕事がしたいか自分で決められなかった自分が居た。
意志でなく縁で現在の石材業をしてるのが事実だ。
自分の人生の判断基準は「意志」よりも「縁の力」のほうが強いと断言できる。
実に受身で脆弱な人間だ。
だからこそ強くなりたいと自分に目標を課し、
肉体的にも知的にも気持ちの上でも自分を抑えて自分なりに努力を重ねた。
そして他人から見て「善」なことに邁進した。
しかし、60歳前に大病を余儀なくされて自分を顧みる機会を得ることになった。
言い換えると「自力」より「他力」に助けられていた事に気づきだした。
仏教は「聖道門」と「浄土門」の二つの学びがある。
聖道門は禅宗のように難行苦行して坐禅をして境地を開く方法だ。自力本願だ。
浄土門は浄土宗や浄土真宗のように易行と言って誰でも簡単にできる「念仏」を唱えるだけの他力本願だ。
「歎異抄」に「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」という言葉がる。
これは日常の常識的な善悪を言ってるのではなく、
善人と思って「念仏」を唱えてる人(自力本願が抜けてない)も往生します。
悪人とは「念仏に」関係ないと思って生きてる人のことで、
そんな人こそ他力(阿弥陀さん)が救ってくれるというのである。
この解説は解説で理解できるが、
どうもすっきりした達成感や充実感が湧いてこないで、
宙に浮いて腰が定まらない感覚になる。
ところが親鸞はそれでよいのだと言い切る。
人間は元来、煩悩具足を捨て去ることはできないと言うのである。
「念仏」によって人間がとことん愚かである事に気付かされるというのである。
気付いたら生かされてることに感謝する。
今までの「善」でなければならないという張り詰めた緊張感から開放され、
現実が見えて、縁によって生かされてることに喜びを感じるというのである。
他力とは他人に依存する事でもなく、意志で損得、好き嫌い、善悪で利己的に判断するのでなく、
天から与えられた命に感謝して、自らの意志を超えた処の「縁」に従った生き方だ。
阿弥陀仏が主体で自分は受身。
人間の弱さや愚かさを照らしだされて、自分を隠さないのは実は強いのだ。
人間を帆掛け舟にたとえると帆を張ることは自分でするが、
水の上を風が帆に当たり進めてくれるようなものが他力だ。
自力は目標もある自分という肉体を通じて感覚や感情も躍動する実感もある。
一方他力はもやもやとした中途半端な立ち位置だが同じ目線になり共生が実現する。
親鸞は弟子は一人もいないと、同じ目線で平等な立ち位置にいて、上下関係がない。
こう考えると諸子百家時代の最後の「韓非子」をが思い浮かんでくる。
荀子の弟子だった韓非子は孔孟の「性善説」と違って「性悪説」という立場をとり、
人間を統率するのに人間を信用してないかのようにルールを作って統治する。
秦の始皇帝は「韓非子」を絶賛して戦国時代をルールで統一したが、
わずか15年しかもたなかったのも事実だ。(次は漢の法三章)
ほんとに韓非子は人間を信じていなかったのかというと違う。
親鸞のように煩悩具足の人間は状況によって、善にもなり悪にもなると見抜いていたのだ。
それを「性弱説」という。
人間元来、弱いからこそ悪を犯さないためにルールを強化したのである。
自力本願は自分を正当化し、自分と同じでないとだめだと教条的になり傲慢になる間違いを犯す。
他力本願は愚禿親鸞というよう煩悩具足が捨てきれない人間を自覚する実在主義で平等主義だ。
社会の中でどんな役割であろうが人間同士は煩悩具足を捨てきれず、
平等であるから共に生き共生が実現できる言うのである。
皆さんは縁を一番にしますか?それとも自分の意志を一番ですか?