近代化と言うのは「土」から離れる事だ。
結果、自然破壊、共同体の崩壊、人間精神(道徳心)の崩壊が現実のものとなってきた。
アメリカは1960年には生産設備が過剰になり、
フル回転させ成長し続けるのに軍需産業に目をつけた。
そんな時ギター片手に「風に吹かれて」の反戦歌を歌い、
現在までに600曲の作曲をしているボブ・ディランがノーベル文学賞を貰った。
日本では岡林信康を始め「戦争を知らない子供たち」などのフォークソングが、
文語調の詩から一変して、口語調の散文の歌詞に曲がつけられた。
伝統的な民謡でなく、小学唱歌でもなく、都会の中にいて田舎を感じ、
エリートが詩吟を語るような伝統的な七五調でもなく、
誰もが口ずさめる新しいリズム感のみんなの歌が創られた。
いい変えると「近代化」と言う合理主義、科学主義、資本主義と言う大きな波に飲み込まれまいと、必死に近代化の中で自己を統合し、経済の奴隷になり人間の疎外間からの解放でもあったように思う。
文学と言えば一部のエリートの集団で、伝統、権威を重んじ、
決して品格のない大衆芸術とは一線を引いていた。
ノーベル文学賞がボブ・ディランを選んだ事には意義を感じる。
「近代化」の三つの結果を引き起こしれる先進国が今後取り組む道しるべを与えてくれてる。
それは「等身大の人間であれ」と聞こえる。
経済の成長ばかりに目を向け、ひた走りに走る事が正しいという価値の行きすぎと、
同時に新しい価値の構築を意味するからだ。
「近代化」の価値は利己心を肯定しもっとほしいという価値だ。
「非近代化」の価値は少欲で満足する「足るを知る」価値だ。
肉体と精神がばらばらになってしまって精神的に病んでる現代人は、
「近代化」を価値とする速度の肉体がついていけないと叫び精神と、
「非近代化」を価値として、できるだけモノをたくさん持たないで、
今の生活を楽しむ価値を尊ぶ。
この「近代化」と「非近代化」は人間で言えば精神と肉体と言うことに置き換えられる。
全く逆の価値のように相対的に考えてしまうのが「近代化」の思考癖だ。
そうではなく、個々人が社会規範を守って(相対的価値)いて、
ひたむきに「今」の生活を楽しむ絶対的価値との共存だ。
リニアーモーターカーが走る時代を手放しで喜んでいいのだろうか?
情報化社会は情報のスピードが速く、頭で処理できないぐらいに変化がめまぐるしい。
次は宇宙社会という、とんでもない時間感覚の世界が映像で描かれている。
空想としては面白い。
人間が人間として進化するスピードをはるかに超えてしまいそうだ。
今こそ肉体と精神が一つになって自分を取り戻し、
生活を楽しむ事だとボブ・ディランは言いたかったのではないだろうか。
皆さんはボブ・ディランのメッセージどう受け取られてますか?