一日作さざれば一日不食

投稿日:2016年9月1日 更新日:

御釈迦さんの時代は出家者は生き物を殺さない不殺生戒を大事にして、
ひたすら修行に励み働くことはしなかった。托鉢で自分の食事をまかなった。
だから働くことの意味が説かれていないのだ。

ところが江戸時代の臨済宗の祖と言われる白隠禅師は働くことは一番だと、
禅宗では「作務」(さむ)と言って日常の掃除、草刈、境内の植木の剪定、
畑仕事、薪割りなどを実際に行った。

「動中の工夫は、静中に勝ること百千億倍」と言ってじっと座禅するより、
身体を動かしながら心を整えることの方がもっと良いと言って「働くこと」が一番だと
絶賛してるのである。
このブログのタイトルの言葉は百丈懐海禅師がおっしゃった有名な言葉で、
弟子たちが先生が高齢なので「作務」はきついから休んでいただこうと道具を隠した。
その日は禅師は食事を取らなかったので、「お加減でも悪いのですか」とたずねたとき、
「私のような得のない人間がどうして人様に働かせことができるでしょうか。
食べることはできません」(一日何も働いてないのに食べれません)

禅で教えるのは人間を創ること。
言い換えると本能のままの人間から脱皮して人格を創ることだ。

でも現実に生きる私達は人格ばかり創っていては生きていけない。
高度に発達した経済社会に生きてるから、
働いてお金を得なければ生活できない。
働くことの位置づけ、意味をしっかりつかまないと悩み苦しむのである。

この実世界では本能的や利己的に思っても、おもい通りにならないことばかりで、
「喜怒哀楽」の感情が起こり心が安定することがないのも事実だ。

実際に働く中で目の前の自然現象も人間同士の社会関係の約束も変化し、
目の前のお客さんや仲間もその関係や状況によってころころ心が揺れ変化する。

そんな中で「心を整える」のは至難の業だ。

動中の工夫=変化のさなかを解決する知恵を出し切り道を自分で創る。
これができたら達人だ。

私流の解説をすると4種類のタイプの人間がある。
自我夢中=自分の好きなことに夢中にする自己中な人間。
他我夢中=他人のいうことばかり聞いて振り回される他己中の人間。
自他夢中=頭で考えてばかりで行動しない評論家の傍観者の立場をとる人間。

四番目は、現実の中で「無我夢中」に成って利他行で行動する。
自分にも他人にも振り回されないで利他行することで無我の心を得て結果心が整う。
この状態を持続させるのはなかなかできないで、
自分に腹が立ったり、悲しんだりするのが凡人の私だ。

これはすべて理屈に過ぎないことを書いてる。

毎日働く中で無我の心を体得するしかない。
無我とは我がないことではない。
大宇宙を感じ利他行を実行する結果、無我となるのである。

皆さんは働く意味どう考えますか?

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