悪いことはしていないのは善き人でな

投稿日:2017年1月22日 更新日:

仏教ではどんな人も気付かないうちに悪いことしてるというのだ。
不殺生戒というのがある。
命あるものを殺してはいけないという修行者の戒律だ。

他の命を奪い食事をしないと人間は生きていけないのが事実だ。
わざわざオレオレ詐欺のように騙す目的ですることは法律で罰せられる悪事だ。
これは当然である。
意識的に他人を騙し自分の欲望を満たそうとする非道だ。

法華経では「慈・悲・喜・捨」という無量心が説かれている。
慈=他人に楽を与える
悲=他人の苦を抜いてあげる
喜=他人が楽を得るのを見て喜ぶ
捨=心の平等な状態

すべて他人に対する思いやりで「利他行」だ。
なぜ、ことさらにこのように具体的にかかれているかというと、
人間の元来持ってる「性」は自分が一番かわいいという「自我愛」だ。
他人を思いやるにはこの「自我愛」をぶっ潰さなければ他人に思いやることは出来ない。

ところが、これが一番難しいのも事実だ。
しかし、人間として正しく生きるにはこの「自我」を捨て去る事だ。

善きことをするには第一に「自我」を粉砕する。
第二に他人のために善きことをするという二段階がいるのである。
意識せず放ったらからしにすると、人間は「自我」が強くなり、
「欲張り」になり「怠ける」のである。

一休禅師は「自我愛」を捨てて人間が本当の自由で自在になり、
煩悩から開放される人を真の善人というのだとという道歌を詠んでいる。

「この世にて慈悲も悪事もせぬ人は
さぞや閻魔もこまりたまわん」

意味=この世で善いことも悪いこともしない人が、
死んであの世に行くとき、さぞや閻魔さんもお困りになるのでは!

(西村恵信先生の「一休」より掲載)

しっかり悪いことして悪事を働いて、大いに懺悔するような人間の方が人間らしい。
閻魔も裁きようがないと言ってるのである。

道元は「迷悟一如」と言ってますね。
又、「仏道をならうというは、自己をならうなり。
自己をならうとは自己をわするるなり。 
自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心を脱落せしむるなり」
人間の心はシーソーだ。
「自我愛」は「利他行に徹すると一時的に隠れる。
ほって置くとまた「自我愛」が出る。
一生迷い一生悟る。

皆さんは「自我愛」とどう付き合っていますか?

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