論語の中に非常に質素でいつも勉学にいそしみ、
具体的に実践した弟子に顔淵という人がいる。
顔淵第十二の始めに、
「顔淵仁を問う。子曰く、己に克ちて礼に復るを仁と為す。
一日己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰す。
仁を為すは己に由る。而して人に由らんや。」
意味=顔淵が仁を質問して孔子は答える。
私利私欲に打ち克って、社会の秩序を保つ礼に立ち戻るのが仁だ。
たとえ一日でも己に克って礼に帰れば、天下の人も自ずから仁になっていく。
その仁をおこなうは自らの意志によるもので。他人の助けによるべきでない」
この次に顔淵はさらに実行すいるにはどうするか質問する。
孔子は「礼」を実践しろ、それに叶ってなければしなくていいと答える。
さて、春秋戦国時代の中国は天下が乱世であった。
いい政治体制が臨まれていたのである。
孔子は歴史に学び周王朝の安定した政治を目指し弟子たちに伝えたのである。
仁とは他人を思いやると言う自分の内面の心を作ることである。
それには「孝悌、克己、恕、忠、信」があると諭す。
孝悌ー弟が兄に尽くす事
克己ー私利私欲を抑える事
恕ー他人に対して思いやる事
忠ー自分の心に素直になる事
信ー人を欺かない事
それを外に向かって具体的に表現するのが「礼」である。
仁の態度と行為であり社会規範だ。
人間に対して丁寧に接する接し方である。
現代人は「礼」というと形式的な儀式と考え迷信だと虚礼廃止運動さえ起こってる。
孔子が生きてたら実に嘆かわしいと思うことだろう。
孔子は病気になり、見舞いに来てくれた人に寝床から挨拶するのは礼に失すると、
自分の正装をかけ布団の上に羽織袴を飾ったというのである。
とこから起きれないので見舞いに来てくれた人に申し訳ないという礼儀である。
個人主義とは随分価値観が違うように思うが、
本来は個人を尊重するなら「礼」をただして迎えることが本来の個人個人の尊重だと私は思う。
こんな手間ひまかけるのは合理的でなく虚礼だと言うのが現代の論法だ。
孔子のあとを継いだのは孟子で「性善説」で仁に重きを置いた。
逆に「性悪説」の荀子はもともと人間は利己心の塊で私利私欲だからこそと、
「仁」よりは「礼」と言う社会規範に重きを置いて伝承された。
孔子は「克己復礼」と言って礼をしっかり実行する事が仁のある国になると断言する。
現代は物質が豊かになり、眼に見える楽しみがいっぱいあることは良いことだが、
眼に見えない人を大切にする行動、
お墓参りしたり、仏壇や神棚に物飯をささげる行為は、
具体的生活に見える利便性や合理性は無いが「礼」の実践に違いない。
当時は亡くなった人のために三年喪に服したのである。
タイの国王がなくなり、みんな黒い服を着て贅沢をせず喪に服す姿を見て、
どちらが心の先進国か考えさせられた。
皆さんは「仁」と「礼」を基本と考えるのを如何思われますか?