自分の精神的な柱を創るときに自我の自我を確立し、
生きていく過程で自我の能力を磨くことが大事だと考えるのは欧米人だ。
ところが、これとは逆に東洋的な精神の柱は逆に無我なる自我を形成するのである。
言い換えると欧米は○×の二者択一の自我だ。
もちろん人間として人を愛する利他行もするし、
他人を喜ばす話術やユーモアも巧みだ。(人間力だ)
東洋の中の日本人は中国とも韓国とも違う。
○×でなく△の自己形成だ。
世界から曖昧といわれること、たびたびだ。
この良し悪しは後日に譲るとして、
△こそ無我の我だと察するのである。
易経には「時中」と言う言葉がある。
要するに「中」とは的中するということだ。
具体的には一升瓶から一升瓶に水を一滴もこぼさず移し変える量とスピード(時間)を的確に行動する。
早くしようとすっれば漏斗(じょうご)を使うだろう。
ゆっくりだとこぼさないスピードで時間を無制限にかけとろとろやる。
仏教でも「分別知」を捨てろという。
人間が勝手に善とか悪とかに分けているに過ぎない。
自然にはそんな基準はないという教えなのだ。
言い返ると○×に分けず、現実に入り込んで、
自然の基準を体得し自分の生きる基準とするものの考え方だ。
道元は「冷暖自知」と言い切ってる。
暑い寒いは自分の身体で体当たりして知れということだ。
傍観して外から観察して現実に入り込まない虚無主義はいかんと言うのだ。
さてもう少し掘り下げると心について考えねばならない。
人間の心には二つある。。
1.人間同士の基準は「損得、好き嫌い、善悪」で表現したら「喜怒哀楽」の表情になる。(人間界の基準)
2.自然の法則を基準「無分別」「善悪は時なり」(道元)
「現実絶対肯定、絶対積極(消極の反対の積極でない)超(超えた積極)。
自然の法則から自我の基準を横に置いて現実に入り込み体得して観る。(自然界の基準)
真理は現実のただ中にあり。(森信三)
この二番の心は努力によってしかできません。
人間は自己保存するために一番の基準で生きているのが普通だ。
でも、各人がそう思って生きてると対立することを体験する。
解決に折半だ、妥協だといろいろ考えるが、本心から納得していないのが実情だ。
少しでもいいから二番の心を高めていく努力をすれば、
おもいは必ず叶うこと間違いありません。
二番目の心を高めれば大自然が応援してくれるからうまく行くのです。(自然の法則を基準に)
一番目の心を高めれば。これは利他行一番の行動をすること。
結果は仲間も味方、お客さんも味方になる事間違いなしだ。(利他行の実践に徹することを基準)
仕事を通じて心を高めるとはこういう意味だ。
自分が自分で幸福をつかむ具体的なコツなんだ。
(注、人間は不完全だから100%できる人はいないと思う。成果の差は努力の差でしょうね)
皆さんは心を高め幸せを味わってますか?