「意気色空を貫く」に思う

投稿日:2020年9月20日 更新日:

この言葉は友人の結婚式の寄せ書きに恩師の小田切先生が書かれた言葉だ。
当時は29歳で全く意味が解らなかった。
「意」とは意識の事で、頭で考えて自分で意志を持つことだ。「志」は時間軸でいうと未来の事だ。あとは「心」と「身体」どちらかというと「心」が目に見えない「気」だ。「気」は宇宙そのものであり自然法則の事だ。
「身体」は有限であるが「苦集滅道(くじゅうめつどう)」という四諦(したい)を意味し、「空風火水地」の五輪を意味する。「空」=風火水地の統括する抽象概念で、「堅湿軟動」ともいって、堅くて湿って柔らかく動くものという意味です。
大自然には生成化育するこの4つの原理が潜んでいるのである。

原理は目に見えませんが宇宙の法則を持ったものが肉体であり、この身体は意識で動かしているのでなく「気」が動かしているのですね。
だから心を閉ざしたり、自分の意に沿わずに気を切ったりすると身体は自然な動きをしないのです。
食事を適度にして、運動を適度にすることと睡眠を十分とれば、何が起こっても体は自在に動きます。
また、心持ちは太陽のように「明るく」「積極的」で「開かれている」状態に保つと病気にならないのですね。

身体を整えることは「健体康心」と言って、健康で心を安らかな状態にすることです。
身体を使い過ぎると、必ず気持ちが沈んだり、気が散漫になったりする。
あるいは自分の利己的な意志を押し通そうとして身体を酷使したり、好き嫌いで事実を意図的に排除したりすると「気」の巡りがおかしくなって身体に出るか、気が自然の法則に乗っ取り現実を取り入れるのでなくなると精神が虚無の世界で遊ぶようになり、うつ病や統合失調症や躁鬱気質になり、自分を見失ってしまうのである。
最近精神病が増えているのは、あまりにも個人主義だの自由だのと束縛を開放することが正しいと思い込み過ぎることから起こっているような気がする。

仏教では「中道」を唱え、儒教では「中庸」を貴び、道教では「無為自然」と自然を肯定し、自己意識をなくし川の流れのように沿って生きることを良しとする。
マルクスが言っていることは2つある。
1.社会変革=社会主義から共産主義へと私有財産の放棄をすることが理想だとする理論。
2.自己変革=自ら広く自然の法則を学び、社会の法則も理解して自然のごとく生成化育して変化成長する人徳と知識や才能を磨くこと。
私たちが生きた学生運動の時代は政治的な利権・談合・癒着を断ち切り、公平な社会を目指して階級闘争をした時代だった。しかし、外に対する変革は出来ても、自己変革が出来ていなかったのが現実だと察する。
毛沢東は2つの革命に成功しなければならないと考えていた。
1.物質革命=私有財産を認めない→私有財産を長期借款で認めること(鄧小平が実行する)
2.倫理革命=老荘に求めようとして晩年山にこもって儒教や老荘の古典さらに朱子学・礼経を学んだ。
マルクスの言う自己変革、毛沢東の考えた倫理革命という人材育成の根本がこれから解決される時代に差し掛かっている。

仏教では「色即是空 空即是色(しきそくぜくう くうそくぜしき)」現象から本質、本質から現象でひとつだと教え、人はまさに現象に囚われ逆さまに事実を見ていると教えている。
「意気色空を貫く」という意味も自然法則にのっとり、人間社会の法則という矛盾を一体化させる貫く哲学観を持てというのだ。

マルクスは、人間の目で見た現実の商品が神に見える交換のみ商品は貨幣であり、
どんなものにも変えられる自由度が高く神に見え、とりつかれることを「物神性」と言っている。実際は商品を作っているのは人間の労働で、貨幣の魔術にかかって本質を逆さまに見ているというのだ。
マルクスはこの自己変革も同時に考えないと本物の平和で自由で平等な物心両面の豊かな社会は実現しないと、現代のわれわれに問いかけている気がする。
唯物弁証法は見える世界の説明はできる。史的唯物史観はその時間軸で変化を伝えることができる。
しかし唯心弁証法、唯心史観と相まって本物の世界を如実知見することが大事だ。

皆さんはいかが考えますか?

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