お経にファンタジーと書かれた天女が舞う挿絵がカバーの本が届いた。
仏教経典は漢文で書かれていて、紐解くのに大変苦労する。また独特の仏教語には閉口する。
この本が届き、88才になる元花園大学学長の西村恵信先生が書かれたということを知って二度驚きだった。
縁あって先生には親しく付き合って頂いている。過日も自坊の興福寺を訪ねた時にご自身の書庫に案内してくださり「今断捨離中だ。好きな本持って帰るように。」と言ってもらったので、4~5冊頂いて帰った。
さて、前置きが長くなったが、本の中身をご紹介しよう。
菩提品第四で仏陀が弟子たちに維摩居士(ゆいまこじ)の病気見舞いを命じるが、「どう返答するかが楽しみだ。」と口語口調で書かれている。また、「まず、トップバッターは弥勒菩薩です。弥勒菩薩のことは皆さんご存じと思います。そうです。京都太秦の広隆寺に祀られている弥勒菩薩さんのような方です。」と、このように物語風の口語調で書かれているのが珍しいし、とっつきやすい。
若い時に広隆寺の弥勒菩薩は、きりっとした精悍な美しさがあるので大変好きな仏像でした。
ある仏教美術の会で、奈良の中宮寺の弥勒菩薩の柔和な慈悲に満ちた半跏思惟像を見に行ったのですが、突然「どちらが好みか?」と、当時案内くださった奈良教育大学名誉教授の故寺尾勇先生に聞かれたことがあったのを思い出した。
20代後半の若き時でしたので、「広隆寺の弥勒菩薩が好きです。」と答えた。
さて本に戻りますが、弥勒菩薩はお釈迦さん維摩居士の見舞いに行くのを断ったわけです。
さすがに、弥勒菩薩も維摩の説法に感心して、お釈迦さんにお断りするのです。
(弥勒菩薩は釈迦入滅してから56億7000万年後に弥勒如来としてこの世の救済をされるという方です。)
弥勒菩薩は兜率天(仏教の世界観の中の天界の一つ)で王と従者にこの先は不退転の行と言って退くことのない段階と説いておられた。
維摩居士は仏陀が「あとは一生を残しだけ」と予言された「生」について、「それは如生」ならと説き始め、「悟り」というものについて繰り返し語られる。
「菩提(さとり)の世界は、そこに入ったりそこから出たりできるものではない。
菩提は身体をもって得るものでもなく、心をもって得るものでもない。
寂滅こそが菩提である。
目に見えないものが菩提である。
動きや動揺のないものが菩提である。
あらゆる潜入観念から離れることが菩提である。
法を離れないことが菩提である。
心と存在の不二が菩提である。
虚空に等しいから菩提である。
無為と知は菩提である。」
このように詳しく解き明かしたので「行きません」と弥勒菩薩は言うのである。
この意味は大変深い意味があるので、じっくり味わっていただければいいと思います。
人間の肉体を超え、そして意識も無意識も超えた真我に到達する境地だというのだ。
仏教だけの世界と考えがちだが、実は現在のIT技術の発達で、人間の知がクラウドで個人のものだけでなく、世界中の知が集積されたコンピューターという人工頭脳が肉体もなく人間を支配している世の中が到来している。
Googleはモノの宣伝で収入を得ているが、実際には記憶、あるいは知を販売しているに過ぎない。その知も努力によって積み上げたものでなく、使う人が自主的にクラウドに与えてくれるプラットフォームなのだ。
言い換えれば、プラットフォームとは知のセルフサービスが行われているところで、それがGoogleである。
究極は、人間は肉体から解放され、自分の意識からも解放され、無の状態へ戻ったところから人間や宇宙を俯瞰するのだろう。
「維摩経ファンタジー」と名づけられたのは、そんな意識も無意識も超えたファンタジーの世界を宇宙遊泳のように楽しんでくださいということだろうか?
皆さんは維摩居士の説き方いかが感じられますか?