「菜根譚」に学ぶ(第三)

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中国で儒教が統一されたのは諸子百家を経て、前漢の時代の董仲舒(とう ちゅうじょ)(BC176年~)が陰陽五行説などと結び、国教の地位を得たのである。その後、儒教は中国社会の大きな柱になる。
南宋時代になって、朱熹(しゅき)が出て朱子学をまとめ儒教が再編され体系化される。
江戸時代に徳川幕府は昌平黌(しょうへいこう)を幕府の学問所として朱子学を取り入れる。

さて、菜根譚は洪自誠(1573~1620年)によって、中国、明の時代に書かれている。
どちらかというと孔子の論語をベースにしたものを儒教というのが正当で、彼は老荘の道教的で、仙人のような空気感を感じる。
その中でも、現実的で禅的仏教の香りがするところがあったので紹介する。

講談社文庫の「菜根譚」の後半の91ページに「身と心の処し方」というところに次のようにある。
白氏云う、「身心を放ちて、冥然として大造に任するに如かず」と。晁氏云う、「身心を収めて,凝然として寂定に帰するに如かず」と。放たば流れて猖狂(しょうきょう)と為り、収むれば枯寂(こじゃく)に入る。唯善く身心を操るもののみ、欛柄手(はへいて)に在り、収放自如たり。」

白氏=唐代の詩人の白居易(はくきょい)(772~846年)、大造=偉大な天の造化・自然、晁=北宋の詩人の晁補之(ちょうほし)(1053~1110年)、寂定=禅定・深く心安定、猖狂=たけり狂う・意のままに激しく行動する、欛柄=刀使の部分・要点の意

訳文=白居易は「身も心も自由に解き放って、奥深く自然のなすがままに任せきるのに及ぶものはない」と言っている。これに対して、晁補之は「身と心の働きをできるだけ少なくして、集中して禅定に入るのに及ぶものはない」と言っている。身心を解き放ってしまうと、それに流されて気違いじみた行動になるし、身心の働きを抑制しすぎると、生命は枯れ果てた状態になってしまう。ただ、自己の身心をよく使いこなすことができる人だけが、要点をしっかりとらえて、収めるも放つも自由自在である。

盤珪禅師(ばんけい ようたく/えいたく)は以下のように言われている。
「主と申さば一切に自在なるところの名じゃ。自在とはおのずから在るということではござらんか。」
主体的な自己であるというのを「主人公」ともいう。すべてに束縛されず自由自在でいることはおのずからあるということで、力まず、自然に無心な己自身である。心に何もなければ、いつ、どこでも固くならずにいることができる。
ちなみに御釈迦様は「この世界が我が家」と言い放たれている。
意識も無意識も超えた主体ということが主人公であり、本来の面目だ。
「無事是貴人」とは臨済禄にある無事とは他に頼らない人のこと、お金にも他人にも環境にも頼らないで主人公を生きる人のことだ。
菜根譚のこのくだりは禅的雰囲気がして洪自誠の学びの深さを感じる。

皆さんはこの問答いかが感じられますか?

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