小さい頃、私はみんな同じように心が働き、心が共有されていると思っていた。
ところが、社会に出て感じたのはそれが自分の思い込みに過ぎない主観だということだ。
「もっと客観的に自分を見るんだ」と教えられた。
しかし、客観的に見ようとしたら主体がなくなって傍観的な見方になる。
「公平、客観、中立」というように迷いだす始末だ。
主観と客観のスタンスが解らなくなったが、ある時、客観とは顕微鏡で見た現象に過ぎず、主観が科学だということに気付いた。
養老孟子さんの眼力はすごい。
「心には個性はない、身体に個性がある」と、こう断言される。
小さい頃からの疑問が解けて腑に落ちた心地よい言葉だった。
そして、言い換えると、心は共有できるということになる。
まさに私が小さい時に感じた他人と同根という感覚だ。
仏教的には「自他不二」という。
養老さんはさらに「教養とは人の心が解る心」と明快な言葉で綴られる。
そして、養老さんが今までたくさん書かれた本で何が言いたいかと問うと「諸行無常」だというのである。
解剖学をやっていて感じたのは、「人間は刻々変化する。変化しないものはない。」ということだったそうだ。
「生きた姿が死んだら死体と変化するように…」とおっしゃる。
とすると、心は「無我」になるというのが日本人の根底にあるモノの見方だ。
明治以降近代的自我が入って来て、また欧米が作った社会体制の中で幾多の戦争を通じて、戦後はこの近代的自我に取りつかれた日本人が多く育ってきているというのである。
これもまた人間が生きるには経済を土台とする唯物論的な考えが近代的自我なのだとおっしゃられる。
全く同感だ。
私は、「唯心論」こそが日本人の文化的風土だと考えており、心と魂を磨くことが大事で、未来に志を持って考えると自然と手段・方法が湧いてくるのが全く自然な思考だと感じている。
みなさんは「自他不二」どう感じますか?