次のようなたとえ話がある。
親子で溺れかかっているのを通りがかりの三者が見た。
一人目は儒学者で、「『孝』を説くので親から助ける」と言った。
二人目の小児科医は「『未来を見据えて』子供から助ける」と言った。
最後に通りがかった仏教者に「どちらを助ける?」と問うた。答えは明快だ。「『近い方』から助ける」だ。
目の前で突然起こった出来事に私たちは驚いて頭が「真っ白」になるのが普通だろう。
ところが、日頃から何事も主観的に考える癖がついていて心が「無」になっていない。
自分が体験したことと知っている知識で常識的に行動する。
それは儒者であり小児科医の判断であり行動となる。
ところが、仏教者は常識の奥にある誰もが持っている「良識」で判断し行動する。
我々は普段気づかないうちに自分の常識という主観が働き、それ以外の主観を無意識に否定している。
人間関係が難しいという人は、自分の常識に縛られ、新しい常識を創造することを忘れている。
禅的に言うと「今・ここ・自己」になって現実の中に飛び込む。
道元は「冷暖自知」と表現し、今に生きることの本気さを諭す。
勇気ある行動は誰が見ても常識を超えた当たり前という「良識」に裏打ちされたものだ。
「死を覚悟して」という表現もするが、主観的な自分と決別する意味では「死を覚悟」かもしれない。
「ほんとの勇気」を考えてみたら、奥にあるのは仏教的な無我という自分がある。
みなさんは「ほんとの勇気」はどこから湧いてくると思われますか?