節分と言って普通は2月3日なのですが、うるう年があるので来年は2月2日になる。
この習わしは、元々中国で行われていたものが日本に伝わり、平安時代に貴族が宮中行事、追灘(疫鬼を追い払う陰陽師が来て厄や災難を祓い清める儀式)として始め、各地に伝わっていったという。
炒り豆を撒く習慣になったのは室町時代からだそうです。豆は大豆が多く鬼の目を意味し、それを炒るのは鬼の目が出ないようにだ。
詳しくは知らなかったが、小さい頃は鬼役をよくやらされ、家の中を歩き回ると豆をぶつけられ外に逃げるのが習わしだった。
人間は何のために生きるかというと「幸福になる」ことを求めているのだが、幸福とはモノがたくさんある、お金がたくさんあるということでない。幸福感は主観的なものだ。
例えば、砂漠の中でのどが渇き、水を欲しているとしよう。
砂漠を彷徨う中、オアシスを見付ける。一杯の水にありつき飲み干した時に「生きてて良かった。死ぬかと思った」と幸福感を感じるのではないだろうか?
「鬼は外で、福は内にある」外には肉食動物がいて人間が食われるかもしれない、又は毒キノコにあたるかもしれないし、それだけでなく地震や大洪水に遭うかもしれない。自然は恵みも与えるが、能登半島地震のように地震や津波で家屋の倒壊が起こり甚大な被害も与える。人間には恐怖の面もある。
人間が生きるのに「生かされている」という他力本願は私心をなくす簡単な方法だが、傍観的で無為自然というような老子、荘子のものの見方となる仙人思想だ。
私達は矛盾する体と心を持つ生身に生きている。
生かされているなら他人から学ぶ必要はない。生きているからこそ他人から学び生きる喜びに気づけば喜びも増える。学びによって、生きがいを想像し、喜びが広がっていく。
人間と他の動植物の違いは「創造力」があり、体験を通じて「成長」するということだ。
少しずつより良くしようとする向上心が埋め込まれている。
生きているから人から学ぼうとする。学びは喜びとなって返ってくる。
幸福は自分の内にある行動力であり、創造力であり、何からも学ぼうとする積極的な情熱にある。
みなさんは福は内に持っていますか?