世界で飛躍的に仏教を信じて修行する人が多い国はアメリカだと言う。
約300万人いるそうだ。
欧米の一神教の世界観から、瞑想による仏教を学び、この世には超越的な存在はないことを知る。
釈迦が「我々の世界はすべて因果の法則による」と、原因と結果の間に成りたつ法則性で動いていることに目覚めて、それを体現すべく「瞑想」をするのだ。
仕事の関係でアメリカのバーリントンにある会社の社長の自宅へ招かれたことがあるのだが、日本を感じてもらおうと作務衣を着て抹茶のお点前をして見せたら、奥さんが臨済禅を学び瞑想していているとおっしゃった。そこで、白隠禅師や臨済禅師の逸話の話をしたら、身を乗り出して聞いてきたのを懐かしく思い出した。心を「無」にすることが大事だと毎日坐禅を実行していると言っていて、庭も日本庭園風にしつらえていた。
仏教には一神教のように中心になるシンボルはない。あるとすれば「私」だ。
あくまでも釈迦の説いた道、「因果の法則」を信じて自らを向上させることを修行という。
出家とは何かというと、我々在家と違い仕事をしないことで、人生のすべての時間とエネルギーを修行にそそぐことをいう。
しかし、仕事をしないことには食事も出来ず生きられないので、「托鉢」と言って、午前中他所の家の前で残った食事をもらって命をつなぐ。だから基本的には何でも残さず食べる。勿論、肉も魚も入っていて、何でも食べるのが2500年前の話だったので、今ある精進料理というような形式は釈迦の時代のものでないことは確かだ。
一方で、在家は我々が生きている世界だ。
仕事をして稼ぎ、衣食住を時代に合わせて実現していく中に「苦悩」が因果の法則の通りに起る。
そこで仏教は、苦しみから解放(解脱)されるにはどうするかというと、「私たちの身体も心も法則性によって存在している。生きる苦しみを消し去るためには外の絶対者に願っても仕方ない。世の中の法則性を正しく知った上で、それを利用した形で自分の心を鍛錬していく、それが苦しみをなくす唯一の道」と諭すのである。
その為には瞑想によって雑念を沈殿させ、如実知見に物事を透明に見つめ、因果を理解することだと教える。
釈迦の最初の説法を「諸転法輪(しょてんぽうりん)」と言うのだが、鹿野苑という場所で「四諦説」、苦しみが集まった滅ぼすために行動しようと「苦集滅道」を説くのである。
自分の心はいつも晴天ばかりでなく、雲がかかったり、雨が降ったりと色々な心模様になるのが現実に生きる我々だ。
そこで、心を劣化させないように、日々自己向上を図ることが苦からの解放であり、自分の中にこそ解決策があることを諭す。
2500年前の仏教が大乗仏教、小乗仏教と変化していき、日本の仏教は大乗仏教であるが、宗旨・宗派はいっぱいあって儀式やしきたりは違うが、真に大事なのは『心ひとつの置き所』と中村天風が言うように、苦からの解放の解決は自分の心を向上させる絶対積極意識で日々の行動と習慣をつくることだ。
みなさんは仏教如何に思いますか?