『人新世(ひとしんせい)の「資本論」』を書いた斎藤幸平(さいとうこうへい)さんが注目されている。
その論旨は「行き過ぎた私」である。
私有財産を認める資本主義社会は自由と民主主義だ。
一方マルクスが想像した社会の理想は私有財産を認めないという共産主義だ。
未だにこんな論争をしているが、もう古い話ではないだろうか?
斎藤さんによると、私有財産は中世の王侯貴族や領主から自由になるために「公」から奪いとって生まれたもので、囲い込まれ私有地になり無償だった自然の恵みが商品化される時代となった。
今や「天然の水」さえも商品化される時代だ。
これが「私」の肥大化だというのである。
だからと言って旧ソ連のような社会主義や村落共同体のような家父長制や封建制に戻ろうというのではない。
パリで水道が公営化されたのだが、国家や官僚が主導するのでなく市民が管理をする「市民営化」のスタイルで、くじ引きでメンバーを選ぶ「市民会議」などが意思決定する新しい仕組みを採用しているという。
「コモンズ」という共同管理だが、従来の「田舎」対「都会」という構図とは違い、水や森の共同管理だけでなく、服を共有したり友達とルームシェアしたりするのもコモンズだというのである。
これからの社会システムのようだが、ここに潜んでいる根本の課題は自己変革意識だ。
マルクスは社会変革として「資本論」で資本を暴き、貧困からの解放はした。
しかし、哲学の貧困からの解放という意識の問題と同時に政治的な専制主義の恐怖からの解放の問題もある。
家父長的な縛りや封建的な身分制度と言ったものでなく、「公」に対する意識が「私」の肥大化になっているのは、社会人としての「思いやり」や「尊敬」「謙虚」「感謝」といった利他的意識を身につけることが忘れられているからではないだろうか。
「公」に対する意識が軍国主義に繋がるという偏見があるような気がしてならないし、マスコミの人権の大事さと弱者に対する公平性の強調は、「利他的意識が欠如した私」を助長しているように思えてならない。
斎藤さんの言う「再公営化」の青写真を詳しくは知らないが、これからの議論になることは間違いない。
社会変革と自己変革の両輪を築くことが新しい公益資本主義の目指す方向だと確信する。
人類は政治的恐怖や哲学の貧困から解放される時を迎えていると予感せざるを得ない。
皆さんは斎藤さんのコモンズについていかが考えられますか?