「自他不二」に生きる

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私の仕事部屋に「自他不二」という言葉が書かれた額がある。
恩師に頂いた言葉で、日々このように行動が出来ているかチェックする意味で掲げている。

普通、人間は自分一人で喜び、満足し、悲しみ、偉いとか駄目だとか、滑ったとか転んだと他人と区別をしている。そのことを仏教では「分別知」という。
それを分別するなというのが「無分別知」であり、この額の「自他不二」は自他を分別するなという意味である。
「自他不二に成りきれ」と教えられたが、相対的な癖がついている思考ではなかなか難しい。

道元は『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の「現成公案」で、「自己の身心および他己の身心を脱落(とうらく)せしむる」と表現している。
要するに、自我の偏見や執着から離れて本然の自性(命のレベル)では助け合って生きているのが事実だ。
これが「あるがまま」であり、自然体だということである。
伯井守という自我(小我)でなく本然の自性(大我)を言っているのである。

しかし現実はみんな違う。
「箱根山 駕籠(かご)に乘る人担ぐ人 してまた その草鞋(わらじ)を作る人」
と、こんな風に関係して成り立っている。
これを仏教では「縁」という。ここには自我は無く、無我なのだということが解る。
自分が今担ぐ人なら担ぐことを一生懸命すること、乗る人ならば気前良く乗って駄賃を払うことが世のために役に立つことだ。
こうしてお互いが役に立ち助け合っているので、あえて「世のため人の為」と言わなくても自分の与えられた仕事をド真剣により良くするだけだ。
あえて言うなら利他行となるが、言い換えると自分も得をしているから利己行にもなり、「自利利他」と「無分別知」の表現で矛盾するようだが事実ありのままだ。

禅では3つの事を解決するために座る。
1.己事究明
2.生死事大
3.他者救済(利他行)
言い換えると、必然的に利他行に専念することで己事究明され、生死を超越する行動になって、頭の中の迷いや苦しみは無くなるということだ。
実に簡単明瞭だが、言葉にこだわってその意味探しに迷うのが人間の愚かなところだ。

「自他不二」に生きたら、楽しくて明るくて迷わなくなってワクワクすること間違いなしだ。
しかし、百丈懐海(ひゃくじょう えかい)禅師は「一日不作、一日不食」で、日々の利他行に専念し、ド真剣に取り組まないと、元の木阿弥の小我が出てくると警告を発する。
手を抜いて楽は出来ないのだと自覚するしかない。

皆さんは自他別々ですか、それとも不二ですか?

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