タイトルの言葉は、恩師の小田切瑞穂先生が最後に私に言い残された言葉です。
その当時は理解ができずに、自問自答を繰り返し、仕事三昧してきました。
おそらく、一生かけて自分に問い続けよということに違いないと今は確信する。
これは禅の言葉で、心の本性を見極めるのに経文に頼らないで覚るということです。
禅宗では真実の自己の事を「無我」と言います。
そして人の心と仏は本来同一物であることを悟って成道することを追求する。
「己事究明」を生涯問い続け、本来の自分になり成仏することを意味する。
『碧巌録(へきがんろく)』第一則に、武帝と菩提達磨(ぼだいだるま)の有名な問答がある。
武帝「この世で最も素晴らしいものは何ですか?(聖諦第一義)」
達磨「カラリとしたもので、素晴らしいとさえ言えません。(廓然無聖)」
武帝「私の前に立っている貴方は、いったい誰ですか?(朕に対する者は誰ぞ)」
達磨「知りません。(不識)」
見性とは悟ることですが、仏を現代的に考えると宇宙の法則が仕込まれた人間という意味になります。
人間は自然の中から生まれたので、宇宙の法則を宿しているんですね。
私たちが自分と思っている自分は自己意識を通した自己で「意識的自己」と言います。
事実として存在する自己とは全く違うという訳ですね。
なので、達磨が自分をどこの太郎とは言わず、知らんと言ったのは正解なんですね。
達磨は「心」を真如と名付け、カタチを持たないと言い、心が変化しないことを「法性(ほっしょう)」と言い、心が何物にも支配されないことを「解脱」と言い、心が何者にも妨げられず自由であることを「菩提(ぼだい)」と言い、心が静かに落ち着いてることを「涅槃(ねはん)」(迷いの消滅)と言った。
達磨の事を「仏心宗」という。
科学的にも進み、哲学的にも深まった現代的な私流の解釈です。
みなさんは「直指人心 見性成仏」如何考えますか?