岸田首相になって、解散総選挙が行われている真っ最中である今、各党が財政赤字で国債発行しても、国民の生活を守り、所得を倍増までいかなくとも収入を増やし、経済を活性化するという論調になっている。
20数年前にはアメリカのように2大政党制を日本も実現するんだと言っていたのに、現代は共産党を除いては国民に対するポピュリズムが結びついた大衆迎合の様相である。
(ポピュリズム=一過主義的に徒党を組んで情緒的であって右往左往すること)
アメリカは自由と平等を求め民主主義を旗印に歩んできたが、2008年のリーマンショックで約1000兆円を失った金融危機を招いたのは経済の(フリードマンの言うところの)新自由主義の延長線上でのサブプライム問題に端を発した住宅信用保証会社の破綻のデリバティブ(金融商品)の乱発だった。
そこで、民主主義が国家と国民の対立関係となり、個人が政府に要求ばかりする状況になって、本当に自由を求めているが逆に不自由になるのではないか?あるいは、平等を求めているのに富の格差は広がっていく。
こんな根本的な課題が浮かび上がってきたのである。
民主主義がポピュリズムと結びついた現代、個人主義は健全に発達するのか?
経済はESG(環境(E)・社会(S)・カバナンス(G))を企業のチェック機能にしようと公益化を進めた動きがあり、株投資あるいはBtoB(企業間取引)では脱炭素の電力を使っているところと取引すると表明する企業も出てきている。
平等の問題も経済的には資本を持てる人が圧倒的に富を集中させている。
言い換えれば、経済的な観点だけでは自由と平等は壊れていくことが予想できる状況だ。
経済は人間が営んでいるゆえに、人間そのものが経済行為の中で人格を高めていく必要性を余儀なくされている。
これを実現するのは日本の江戸時代から言われている近江商人の「三方よし」の商人道である。
江戸時代末期で言えば、600もの村の財政を立て直した二宮金次郎の改革システムである。
その基本理念は「道徳なき経済は罪悪、経済なき道徳はたわごと」というものである。
欧米のように、「経済は経済、人間の人格は人格」と違うものとして捉えるのではなく、事業や仕事を通じて人間に人格も成長させる必要が出てきたのである。
最近ハーバードの日本人論が盛んに研究されているのは新しい経済に取り組み哲学を求めているからだ。
この事実からも戦後「エコノミックアニマル」と言われ、経済を第一主義に発展させた日本人が自分の先達に尊敬の念を持ち、国を憂い、自らが主体的に、日本に元々あった自主、自律、自覚のある哲学をもう一度見直し掘り下げ身につける必要を感じる。
個々人の自立とは自分の専門性を磨き上げ、互いに認め合って助け合う(チームとして)相補的関係を創ることだ。
チームワークとは仲良しグループではなく競い合う中に協力し合うことだ。
地域の村社会がなくなって、掟やしがらみから解放され互いが協力し合うことがない中で、仕事を通じて企業が利害関係者をみんな幸せにする公益を目的に人の輪をつくる時が来ている。
二宮尊徳流に言えば「共益ない私益はわがまま主義、私益のない共益は人間奴隷主義」と言える。
本当の個人主義は自分の才能を私物化せず、みんなのために役立て自分と違う能力の人を受け入れる度量がいる。
皆さんは真の共益を育てることをいかが思いますか?