大阪石材社長ブログ

「自分とは、公的なのか、私的なのか」

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養老孟子さんは「『自分』とは頭の中にある地図の矢印に過ぎない」と言う。
動物が巣に帰る、ミツバチも迷わず帰るように、脳の中には「自分の領域」を決めている部位があって、「空間定位の領野」と言うそうです。
話が難しくなりますが、脳卒中の脳神経解剖の研究をする女性の学者が、自身が脳卒中になり出血している最中に意識して記憶しようと自分を実験台にした記録がある。

「自己」、「自我」、「自意識」というように用語の説明がされるのが一般的だが、結論から言うと「無我」が本質だというのである。
「自己」と意識するのは脳の中にある地図で自分の位置を決めているのだが、脳全体に血液が流れると全く境目がなくなり「我」というものが崩壊する。少なくとも自然と一体化する感覚になる。
私は臨死体験をしたことがあるので、この感覚は分かります。(詳しくは後日書く)

明治以降、西洋的な「近代的自我」を育ててきたのが日本の歴史である。
この時の「自我」は、植民地化回避という大義名分に、身を捨てて「公人」の自己形成を急いでできたものである。
さらに、明治・大正と西洋の哲学や文学、科学、建築学などが幅広く翻訳され学んできた。
夏目漱石の「私の個人主義」では、自分の進むべき道を掘っていくことが個人主義であるが、利己主義とは違うという日本人的な解釈を説いている。言い換えると、公人的個人主義だ。漱石が何故そう感じたかというと、明治の30年代にロンドンに行くのであるが、あまりにも割り切った近代的な自我は個人に自己主張を押し付け、私的個人主義的だったからであろう。
一方、公的な場所でのマナーの良さは徹底されていた。日本は全く逆で「旅の恥は掻き捨て」という言葉がある。

戦後の日本の教育は戦勝国によって修身なる教科は廃止され、「自由と民主主義」こそが正しく、自己主張することが自己であり、議論によって対立することは正しく、ディベートなどと言って、どちらの主張が正しいか負かし合いするようなことまで教えるのであった。
明治の頃と戦後の「個人主義」が決定的に違うのは、「大義」がないことだ。
漱石が書いた「利己主義的個人主義」が横行しているのである。
言い換えるとして個人主義ということになり、日本人の哲学、思想がグローバル化の世界の中で、ますます狭い思考に成り下がっているのが現状だ。
「この世は舞台、人はみな役者だ」と言ったのはシェークスピアだが、「日本が舞台、人は通りすがりの単なる役者」になっているように思う。

「公私のけじめをつけろ」とよく言われたのは1960年代以降の経済成長期の猛烈社員時代だった。
その後は労働運動が盛んになり、資本家の搾取だと賃金闘争に時短闘争、人権課題が前面に出て、ますます欧米化して自己主張の激しい近代的な自我(私的個人主義)を助長させた。
1980年代は「Japan as No. 1」と評され世界へ品質の良い商品を売りさばくも、「エコノミックアニマル」と呼ばれ世界からたたかれ、1985年のプラザ合意によって円高容認され、日本は内需の拡大へ方向転換し、バブルが崩壊する道を辿るのである。

今日本人に求められているのは世界の中の日本であり、世界を見据えた公的個人主義の人物像だ。
全くグローバル化に対応した人材教育・人材育成が遅れている。
日本が欧米の資本、チャイナマネーの資本によって、ファンドという名で乗っ取られようとしていることだ。
我々のような業界にもファンドがM&Aを仕掛けるし、友人の貿易の輸出入会社もファンドが入ってきて、5年で時価株総額を5倍にするというプランを実行中だ。
自分の小さな幸せを考えることはいいことだが、見えない大きな資本の世界では激しく日本乗っ取り計画が進み、植民地にされる可能性があると断言できる。

みなさんは公的なのか私的なのか如何考えますか?

-社会, 経済