20代後半に恩師小田切より「臨済録」を学んだ。
和綴じの漢文で書かれた本が教科書だ。
(今もその本はあり、先生の解説が書かれた幼稚な自分の字を懐かしむ)
仕事・人生は変化の連続の中にある。
これを仏教では諸行無常と言う。
誰でも知ってるが、腹のそこまで納得できていないのである。
心の安心がほしいとおもうからだ。
変化の中で常に緊張するのは苦しいからだ。
どうしても楽と苦があれば、楽を望むし苦を避けるのが人情だ。
この矛盾を解決することが大問題である。
臨済禅師は[途中にありて家舎を離れず」と言う言葉がある。
どんな人も仕事も人生も歩んでいるときは途中なんですね。
ここが実に面白いのは、右足が宙に浮いたら、左足は大地にしっかりある。
これ当たり前だが、この大地を踏みしめてる瞬間が実に家にいるように安堵した心持、
友人との笑顔の会話、美しい景色に出会う喜びの束の間だ。
次に右足が大地を踏むと左足は宙に浮く。
この繰り返しが変化であり無常と表現してるのだ。
大事なのはどこの大地に一歩を踏むかである。
この一歩がどこに落ちるかと解っていたら、きっとどんな人も行動しないで怠惰になるに違い
ない。
先が解らないから、努力もするし、わざわざ生きるん値打ちがあるのだ。
禅の言葉に「経外別伝 不立文字」というのがある。
何もかも知ってるから明日を確実に予測できるわけでないことは誰でも解っているにもかかわらず、屁理屈の知識で何とか方法を見出そうと浅知恵を絞るのである。
知恵には二つある。
1.利己心と知識は自分を守ることを選択する浅知恵だ。
2.利他心と知識は本当の知恵が出る。
利他心に目覚めるには「志」「利他行」「善行」を強く心に願うことだ。
すると勇気と情熱が自分の行動力に拍車を掛けてくれる。
高田好胤さんは「水を飲んで、蛇はこれを毒にし、牛はこれを乳にする」
言い換えると利己心はなくならないが、
唯識学では「轉依」(てんね)と言って、
本来人間は利己心だが、利他心へ転換することを教えてるというわけである。
これは理屈だが、なかなか実行するのは難しいから、
修行僧は朝早く起きて勤行をするのだ。
われわれは凡人は日常の仕事や、家族のために洗濯や掃除と言う勤行をしてるのである。
勤行だから、嘘ついたり、物事を摩り替えて自分をよく見せたり、盗んだりせ平凡で誠実に生きてる。(大半の人は毎日誠実に生きてる)
先が見えないから夢が描ける、その夢に向かった行動ができる。
命を輝かせるのは命を大事にしすぎて守ることでなく、
命の主人である私が自利利他の価値を吹き込むことだ。
ますます、仕事・人生が命の輝きと共に、行動すればするほど素晴らしい末来ができていく事間違いなし。
皆さんは仕事・人生が途中であり、同時に暖かく笑顔の家がある束の間を楽しんでますか?