赤ちゃんの時は親を信じて身も心も預けて育つから、
よほど親が躾けないと、
誰かに依存して生きたほうが楽だと考えるのが普通だ。
この依頼心をとるために親は子育てして自己犠牲する中で自立する。
言い換えると子供によって親にならしてもらえるのである。
子供は自己本位に行動するもので、
この世の中も人も事物も思い通りに動かせると思っている。
ところが現実はそうはいかない。
事物は物理的な法則を知れば動かせる可能性はあるが、
人間はそうはいかないことにぶつかる。
ここから苦しみ悩みが始まるのである。
仏教では「智慧」と「慈悲」(利他行)を説く。
すると自分を頼ることとなる。
そうなればよほど自分というものをしっかりしないと、
甘い言葉に乗って他人に騙されたり、
自分自身の内なる本能の五欲(色欲、食欲、睡眠欲、名誉欲、財欲)
に埋没して狂ってしまうか、虚無的になり傍観者として生きることになる。
法句経に「己こそ 己の寄る辺 己をおきて 誰に寄る辺ぞ
よく整えし己にこそ まこと得難き 寄る辺をぞ得ん」
涅槃経ではお釈迦さんが阿難に「自灯明 法灯明」に頼れといった。
お釈迦さんが説いた法(ダルマ)と自分自身に頼るということだ。
さて、無門関第二十八則の話が面白い。
徳山宣艦(780~865)という青年僧が龍潭崇信和尚を訪ねて、
話し込んでいたら夜が更けてしまい、提灯を借りようと手を出したとたんに、
龍潭和尚がその明かりをすっと吹き飛ばし消してしまった。
そのとたん徳山は悟りを開いた。
徳山は提灯の明かりに頼ろうとした自分の間違いに気づいたのである。
この真っ暗な中で何かに頼ろうとしていたのでは、歩くことができない。
そうだ自分に頼るしかないと気づいた。
「随所に主なれば至る所真なり」という禅語もある。
皆さんは自信ないですか、ありますか?