道元禅師のエピソードは数々ある。
如浄禅師との出会いの問答で、発心され『心身脱落』と喝破された。
要するに、人間という世界にとらわれ考えて、
善だ、悪だと相対して分別している自分を発見された。
(無分別知を知る)
心や身体を離れた自分もあるというのだ。
(現実は心身はあるのも事実だが、仏教では『我』は仮りの自分という意味)
当時、宗(今の中国)から帰って政治にもかかわるが途中で断念し、
如浄禅師の教え通り、山の奥に永平寺を建立し、
坐禅の普及に命をかけたのである。
面白いエピソードが伝えられている。
ある時、寺の近所で火事が起こり、
弟子の僧達はあわてて火を消すのに奔走していた。
道元禅師は『私は法を伝える使命がある』といって坐禅したままで一歩も動かなかった。
一念を貫かれた人の行動だ。
さて、『正法眼蔵随聞記』のなかで、
『示(じ)にいわく、仏々祖々、元は凡夫なり。凡夫の時は、必ずしも、
悪業もあり、悪心もあり、純もあり、痴もあり。
然れども、ことごとく改め手、知識(師)に従い、修行せしゆえに、
皆、仏祖となりしなり。
今の人もしかあるべし。
我が身愚かなればとて、卑下することなかれ。
今生に発心せずんば、いずれの時をか待ってか行道すべきや。
今強いて修せば、必ずしも道を得ベきなり』
意味=今、仏や祖師と仰がれてる人々も、元はといえば凡夫であったのだ。
そしてそういう方々も、凡夫だった間は、悪業も断ち切れず、
時にはよからぬ心にもなられ、また生まれつきからいっても、
鈍い人もあれば、愚かな人もなかったわけではない。
だが、それらの方々は皆心改めて、それぞれ立派なお師匠さんにつき、
真剣にその教えを聞いて実行されたので、みんな立派な仏祖として、
今日多くの人から仰がれるようになられたわけである。
それゆえ、現代の人もそうなくてはならぬわけである。
すなわち「自分がおろかだとか、純だからといって卑下してはいけない。
この世で発心しなかったら、一体いつ悟りが得れようか。
真剣に道を求めれば、必ず得られるものである。」
われわれ凡人はこの世の中を生き抜き、仕事をする中で、
少しでも体現できれば幸いだ。
この世を地獄にするも極楽にするも自分の心一つだ。
凡夫の私は心を積極意識全開で『今、ここ、自己』に徹しきり、
自らの行動に『私心がないか?」自問自答をする以外にない。
皆さんは道元の言葉如何味わいますか?