自力と他力をたとえるのに猿の親子と猫の親子の話がある。
猿の子供は危険が来ると親の背中や腹にしがみついて母親に守ってもらい、
猫の子供は危険が来ると親は子猫を口でくわえ運ぶのは皆さんご存知でしょう。
一見すると猿が自力で猫が他力のように考えるが、
実は自他不二(一如)なんですね。
小猿が危機に母猿に飛びつくのは確かに自力に違いない。
ところが、母猿は常に子猿が落ちないように気遣って万全の注意を払ってるから、
他力なんですね。
一方猫は母猫に身を任せ、なすがままなんで他力に違いない。
ところが、子猫は全身の力を抜いて母親に一切を預ける努力をしてるのですね。
もし一瞬でも力をいれたら、首筋は食い破られることになる。
他力が無ければ自力は機能しませんし、
自力を高めようとしなければ他力は力を貸してくれません。
この自力と他力を結ぶものはお互いが相手のことを信じて、
頼り切る「信頼」が無ければ成り立たない。
親子、夫婦、上司と部下、仲間同士の人間関係の基本はこの「信頼」関係が無ければ成り立ちません。
お釈迦さんは、この信頼関係が結べない人は救えないとおっしゃってる。
「縁なき衆生は度し難し」仏縁の無い人はどんなに救ってやろうとしても救えませんと断言されてる。
現実の社会では「うそ」「裏切り」「詐欺」「盗み」に出合う。
人間不信になることが私にもありました。
しかし騙されても人間を信じよう、自分の心に依頼心があったと反省した。
そんな時、いつも夏目漱石の「草枕」の冒頭の言葉を思い出し自分に言い聞かせた。
「人間を信じないと人でなしの国に行く」
草枕の冒頭、
「山道を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ、情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引っ越したくなる。
どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて画ができる。
人の世を作った者は神でもなければ鬼でもない。
やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。
ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。
あれば人でなしの国である。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。」
たくさん体験し学ぶことができたおかげで、
直感的に本物の人間がわかるようになった。
偽者は優しくささやきながらやってくるが、
本物はそんなことはしない。
自分の利己心が優しい人を求めていたに違いない。
騙されたからこそ、一生懸命生きる人に魅かれる。
騙した人を恨んでも何も生まれない。
未熟な私に本物の眼を育てるために必要だったに違いない。
「幸福の中に不幸があり、不幸の中に幸福がある」
自力他力も自分の心が作り出しているに違いない。
白隠禅師の坐禅和讃に「因果一如の門開け」二元論を超えた世界観がある。
みなさんは自力他力は一如であると思われますか?