キリスト教の世界では、人間は神にはなれません。
だから一週間に一回神に礼拝する安息日が与えられ祈るのでしょう。
いつの時代からか休むのが当たり前の時代になった。
江戸時代は盆と正月に奉公先から丁稚は実家に帰るために休みをもらった。
そのとき手土産に持たせる羊羹は水増しして量を増やしたものだ。
「丁稚羊羹」といって今でも和菓子屋さんにはある。
恩師、小田切瑞穂先生に質問したことがある。
最晩年の80歳ぐらいのとき、
先生主催の東方学術院の活動で休み無く東奔西走されていたので、
「先生は休日は無いのですか?」と尋ねたことがある。
先生は即座に答えられて、
「真理を探究するものに休みは無い」と答えられた。
言葉だけかと思い、娘さんに日ごろの生活を聞いてみた。
朝は5時起きて毎日、裸をタオルで全身摩擦する。(寒風摩擦)
そして体操され、午後からは散歩の時間を設け、それ以外は研究生活に没頭しておられたそうだ。
自己管理が100%できている人ではあるが、
志が高い人であったから続けられたに違いない。
論語に「朝(あした)に道を聞かば 夕べに死すともかなり」という言葉がある。
彫刻のスピードの速い棟方志功さんは三万六千五百日の朝という言葉を残しておられる。
百年生きたってこれだけの朝にしか出会わない、一朝だって無駄にしない。
研鑽し続けられた。
禅の言葉では「今・ここ・自己」=「一刹那正念場」ということだが、
理屈は知ってるが365日休みなしの生活ができるか?
禅では悟るには二つの方法があるといわれる。
「頓悟」=ある日突然はっと目覚める。(天才型)
「漸悟」=修行の末、徐々に理解が深まる。(秀才型)
人間は習慣の動物だから、誰でもできるが、
このことを望むか望まないかは本人が決めているのである。
何かを得たいと「願い」を持てば「決断」が要る。
「決」とは「こうありたい」と願いをひとつに絞ること。100ある中で1つにする事。
「断」とは「99を断ち切り求めない」と捨てること。99を見向きもしないで捨てる事。
この二つがそろって迷いが無くなる。
いつも真剣勝負である。
毎日研鑽すると必然的に中道で無ければ肉体も精神も続かない。
恩師、小田切先生は自らをコントロールされていたのだ。
最近「肩の力を抜いて、いつも真剣勝負」できたら、
結果中道が体得できると感じる。
でもなかなか体得できず揺らぐ心を自覚する次第だ。
「こうなりたい」「ああ生きたい」と理屈を言って、外にもとめるのでなく、
学びながら中道(バランス・平常)を体得することを願い行動することが結果生きることになる。
道元は「自己をはこびて万法を修証するを迷いとす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり」
皆さんは365日休みなし、いかが感じますか?